一曰閼川楊山村、 二曰突山高墟村、 三曰觜山珍支村或云干珍村。 四曰茂山大樹村、 五曰金山加利村、 六曰明活山高耶村。
是爲辰韓六部。 高墟村長蘇伐公望楊山麓、 蘿井傍林間、 有馬跪而嘶、 則往觀之忽不見馬、 只有大卵。 剖之、 有嬰兒出焉、 則收而養之。 及年十餘歲、 岐嶷然夙成。 六部人以其生神異、 推尊之、 至是立爲君焉。 辰人謂瓠爲朴。 以初大卵如瓠、 故以朴爲姓。 居西干、 辰言王。 或云呼貴人之稱。
四年夏四月、 辛丑朔、 日有食之。
五年春正月、 龍見於閼英井、 右脇誕生女兒。 老嫗見而異之、 收養之、 以井名、 名之。 及長有德容。 始祖聞之、 納以爲妃。 有賢行、 能內輔、 時人謂之二聖。
八年、 倭人行兵、 欲犯邊、 聞始祖有神德、 乃還。
九年春三月、 有星孛于王良。
十四年夏四月、 有星孛于參。
十七年、 王巡撫六部、 妃閼英從焉。 勸督農桑、 以盡地利。
十九年春正月、 卞韓以國來降。
二十一年、 築京城、 號曰金城。 是歲、 高句麗始祖東明立。
二十四年夏六月、 壬申晦、 日有食之。
二十六年春正月、 營宮室於金城。
三十年夏四月、 己亥晦、 日有食之。 樂浪人、 將兵來侵、 見邊人夜戶不扃露積被野、 相謂曰
「此方民、 不相盜、 可謂有道之國。 吾濟潛師而襲之、 無異於盜、 得不愧乎」
乃引還。
三十二年秋八月、 乙卯晦、 日有食之。
三十八年春二月、 遣瓠公聘於馬韓。 馬韓王讓瓠公曰
「辰、 卞二韓爲我屬國、 比年不輸職貢、 事大之禮、 其若是乎」
對曰
「我國自二聖肇興、 人事修、 天時和、 倉庾充實、 人民敬讓。 自辰韓遺民、 以至卞韓、 樂浪、 倭人、 無不畏懷、 而吾王謙虛、 遣下臣、 修聘、 可謂過於禮矣、 而大王赫怒、 刼之以兵、 是何意耶」
王憤欲殺之、 左右諫止、 乃許歸。 前此、 中國之人、 苦秦亂、 東來者衆、 多處馬韓東、 與辰韓雜居、 至是寢盛。 故馬韓忌之、 有責焉。 瓠公者、 未詳其族姓。 本倭人、 初以瓠繫腰、 度海而來、 故稱瓠公。
三十九年、 馬韓王薨。 或說上曰
「西韓王前辱我使、 今當其喪征之、 其國不足平也」
上曰
「幸人之災、 不仁也。」
不從、 乃遣使吊慰。
四十年、 百濟始祖溫祚立。
四十三年春二月、 乙酉晦、 日有食之。
五十三年、 東沃沮使者來、 獻良馬二百匹、 曰
「寡君聞南韓有聖人出、 故遣臣來享。」
五十四年春二月、 己酉、 星孛于河鼓。
五十六年春正月、 辛丑朔、 日有食之。
五十九年秋九月、 戊申晦、 日有食之。
六十年秋九月、 二龍見於金城井中。 暴雷雨、 震城南門。
六十一年春三月、 居西干升遐。 葬虵陵、 在曇巖寺北。
新羅の始祖は、姓は朴氏、死去後に送られた稱號である諱は赫居世である。
前漢の第九代孝宣皇帝の治世である五鳳元年西曆の紀元前五七年甲子の年の四月丙辰一曰正月十五日に卽位した。その王號は居西干とした。このときが十三歲である。國號は徐那伐である。調べても發音がわからないもの多數の爲、以降は基本的に固有名詞にはルビを付けない。
以前より朝鮮遺民が山や谷の閒に分かれて住んでいて六つの村になっている。一つめは閼川楊山村、二つめは
突山高墟村、三つめは觜山珍支村または干珍村という。四つめは茂山大樹村、五つめは山加利村加里村、六つめは明活山高耶村という。
これらが辰韓六部である。
高墟村の村長である蘇伐公が楊山の麓を眺めていると、蘿井の林の邊りに馬が跪いて嘶いているのを見つけた。近づいて見たところ、馬の姿はなくてそこにはただ大きな卵があった。それを割ると赤ん坊が出てきたので持って歸ってその子を養った。
それから十數年經つ頃には、背が高く堂々としていて、しかも物覺えがとても良かった。
六部の人はその不思議な出生からこの子をあがめ尊び、ついに君主にした。
辰韓の人は瓠ひょうたんのことを朴という。
その子が初めは瓠のような大卵だったので、よってその姓を朴にした。
居西干は辰韓では王のことである。あるいは貴人を稱して呼ぶという。
四年夏四月の辛丑の一日、日食が起きた。
五年春正月、閼英の井戶に龍が現れてその右脇から女の子が誕生した。
老婆はこれを不思議なことだと思ってその子を養子にした。龍が現れた井戶の名前をその子に名付けた。その娘は成長すると德のある容貌となった。
始祖はこれを聞いてその娘を后にした。
賢くて行いが良く、内助の功で王をよく輔けた。當時の人はこれを二聖だと言った。
八年、倭人の兵が國の邊境に侵入してきたが、始祖に神德あると聞いて歸った。
九年春三月、王良にほうき星あり。
十四年夏四月、參にほうき星あり。
十七年、王は六部を巡撫し、妃の閼英も同行した。農耕と養蠶を奬勵して土地からできるだけ利を得られるようにした。
十九年春正月、辯韓が國として降伏した。
二十一年、京城を築いて金城と號した。この京城・金城は朝鮮の京城であるソウルではなく、徐那伐=後の新羅の京城なので現在の慶州。この年に高句麗の始祖である東明が卽位した。
二十四年夏六月、壬申晦、日食が起きた。
二十六年春正月、金城に宮室を置いて營む。
三十年夏四月、己亥晦、日食が起きた。
樂浪人の將兵が侵攻してきた。しかし、邊境の民が夜に家の扉を閉めず、畑で採れた野菜や農具などを家の中に仕舞わずに外に出しっぱなしにしているのを見て、お互いに言うには、この國の民は互いに盜んだりしないのだ。人道のある國というべきだ。私は師團を潛ませてこれを襲おうとしている。盜賊と違いがない。恥ではないか。そうして引き返した。
三十二年秋八月、乙卯晦、日食が起きた。
三十八年春二月、瓠公を使者として送り馬韓を訪問した。馬韓王は瓠公を責めて言った。
「辰韓と辯韓の二國は我々の屬國であるが、何年も收めるべき貢物を送ってきていない。力の弱い者が力の强い者に從う事大之禮がなってないではないか。」
これに對して瓠公が言うには
「我が國は二聖が治めるようになって社會の基盤を整え、自然の惠みがあり、倉が充實して人民が王を敬っています。辰韓遺民から辯韓まで、樂浪や倭人も畏れを懷かざるを得ないでしょう。しかし、私の王は謙虛なので臣下を使者として贈り物をするのは禮が過ぎるでしょう。それなのに大王がそのように怒って武力で脅かすのはどういうことでしょうか。」
馬韓王は激怒して瓠公を殺そうとしたが周圍の家臣が諌めて思いとどまらせ、歸ることを許した。
これよりも前のことであるが、中國人は秦の戰亂に苦しめられて逃れた人々が東にやってきた。多くは朝鮮半島西側の馬韓の東に居著いたが、つまり中國人が流れ著いたのは馬韓ではなく辰韓と辯韓元々朝鮮半島東部に居た人達と雜居して辰韓が興り爭いなく繁榮した。だから馬韓はこれを嫌って責めるのだ。
瓠公はその種族や姓は不明である。元は倭人である。腰に瓠古くは「ひさこ」を著けて海を渡って來たので、故に瓠公と稱している。
三十九年、馬韓王が死去する。
赫居世の部下のある者が王に言うには、
「西韓王馬韓王は以前に我が國の使者の瓠公を辱めました。今、この喪の機會に乘じて征伐すれば馬韓を平定できるでしょう。」
王は
「人の災いを自らの幸いにするというのは仁の道に背くことだ。」
と言って、この部下の進言は聞き入れず、使者を送って弔問した。
四十年、百濟の始祖となる溫祚王が卽位した。
四十三年春二月、乙酉晦、日食が起きた。
五十三年、現在の中國・北朝鮮・ロシアの國境邊りの東沃沮から使者が來て良馬を二百頭獻上される。その使者が言うには
「我が君主は南韓の地に聖人が出現されたと聞きました。そこで家臣を派遣して捧げに來ました。」
五十四年春二月、己酉、河鼓にほうき星あり。
五十六年春正月、辛丑朔、日食が起きた。
五十九年秋九月、戊申晦、日食が起きた。
六十年秋九月、金城の井戶で二匹の龍の姿が見られた。暴雷雨で城の南門が震えるほどであった。
六十一年春三月、赫居世居西干が亡くなる。虵陵に葬る。虵陵は曇巖寺の北にある。
虵陵は現在の慶州市の南山近くといわれる。
實在したか不明ではあるが、元は朝鮮半島南部に辰國という國があって、そこから新羅の元になる辰韓と辯韓が發生している。辰韓は朝鮮半島南東部、辯韓は朝鮮半島南部中央の地域。倭が朝鮮半島南部で活動した地域と重なる。この辯韓が後の駕洛國・伽耶國・任那になる。
新羅本紀ではあるが、赫居世の時代は新羅ではなく本文にあるように徐那伐という國號を使っている。國號が新羅になるのは新羅本紀第四の智證麻立干から。赫居世から數えて二十二代目
卵から生まれた王と龍の脇から生まれた后が國を建てるという神話世代。しかし、倭國が攻めて來たり瓠公という倭人が重臣にいるなど倭國が近くにあるのが不自然でない時代でもある。瓠公については海を渡ってきたと書かれているが、それぞれ倭人がはるばる海を越えて來たというのではなく、朝鮮半島南岸にあった倭の支配地域から來たと考えるのが自然だろう。書かれていることの眞實性はともかく、倭國の勢力が朝鮮半島にあったこと、もしそれがけしからんということであっても、少なくとも倭人が朝鮮半島で當たり前のように活動していたことが三國史記の書かれた十二世紀ではタブーではなかったことを示している。