古事記 上巻 伊邪那岐命と伊邪那美命(四)

 伊邪那美いざなみの死後、伊邪那伎いざなぎが黃泉の國(死者の國)にイザナミを迎えに行って逃げかえってきたのは前囘に書いた。地上に歸ってきたイザナギはけがれを落とすために現在の島根けんから宮崎縣まで移動して川(または海)に入ってみそぎを行う。なぜ禊のために島根からはかなり遠方の宮崎まで移動しなければならなかったのかという理由は書かれていない。
この穢れを落とす場面が神社などで神主が禊祓詞みそぎはらへのことばの中に「つくしのーひむかのーたちばなのーおどのーあわぎーはらにー」というくだり。この場面を知らないで「つくしのーひむかのー」というこえだけを聞くと全く何を言っているのかわからないが大昔の宮崎縣の川(または海)で凄い禊が行われたのだと知っていれば神主の聲を言葉として理解できて情景を思い描くことができる。

 さて、世紀の大禊が行われる中で次々に神が生まれるのだが、中でも多くの日本人がもっとも重要な神として日頃おまつりする天照大神あまてらす須佐之男すさのおなどの超大物の神が生まれている。
そういうわけでアマテラスやスサノオはイザナミが產んだわけではなく、母親はおらず父親のイザナギのみの神。しかし、イザナミによる穢れを元に生まれているのでイザナミが母親ということにもなる。

では、伊邪那岐が黃泉の國から戾ったところから。

是以ここをもて伊邪那伎大神詔いざなぎのおほかみのりたまはく
吾者到於伊那志許米上志許米岐あはいなしこのしこめき 此九字以音このここのじこへをもちふ 穢國而在祁理きたなきくににいたりてありけり 此二字以音このふたじこへをもちふかれ吾者爲御身之禊あはおほみまのはらひせな
ここに到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎ 此三字以音このみつじこへをもちふ 原而はらにいたりて禊祓也みそぎはらうなり
かれ於投棄御杖所成神名なげうつるみつえになりませるかみのみなは衝立船戸神つきたつふなどのかみ次於投棄御帶所成神名つぎになげうつるみおびになりませるかみのみなは道之長乳齒神みちのながちはのかみ次於投棄御囊所成神名つぎになげうつるみもになりませるかみのみなは時置師神ときおかしのかみ次於投棄御衣所成神名つぎになげうつるみそになりませるかみのみなは和豆良比能宇斯能神わづらひのうしのかみ 此神名以音このかむのなこへをもちふ次於投棄御褌所成神名つぎになげうつるみはかもになりませるかみのみなは 道俣神ちまたのかみ次於投棄御冠所成神名つぎになげうつるみかんふりになりませるかみのみなは 飽咋之宇斯能神あきぐひのうしのかみ 自宇以下三字以音宇よりしもみつじこへをもちふ次於投棄左御手之手纒所成神名つぎになげうつるひだりのみてのたまきになりませるかみのみなは奧疎神おきざかるのかみ 訓奥云淤伎、下效此よみで「奥」を「おき」といふ、しもはこれにならふ 訓疎云奢加留、下效此よみで「疎」を「ざかる」といふ、しもはこれにならふ次奧津那藝佐毘古神つぎにおきつなぎさびこのかみ 自那以下五字以音下效此那よりしもいつじこへをもちふ次奧津甲斐辨羅神つぎにおきつかひべらのかみ 自甲以下四字以音、下效此甲よりしもよつじこへをもちふ、しもはこれにならふ次於投棄右御手之手纒所成神名つぎになげうつるみぎりのみてのたまきになりませるかみのみなは邊疎神へざかるのかみ次邊津那藝佐毘古神つぎにへつなぎさびこのかみ次邊津甲斐辨羅神つぎにへつかひべらのかみ右件自船戸神以下みぎりのくだりふなどのかみよりしも 邊津甲斐辨羅神以前へつかひべらのかみまで 十二神者とをまりふたばしらは因脱著身之物みにつけるものをぬぎうてたまひしによりて 所生神也なりませるかみなり
於是詔之ここにのりごちたまひて
上瀬者瀬速かみつせはせはやし下瀬者瀬弱しもつせはせよわし。」
ここに初於中瀬墮迦豆伎而滌時はじめてなかつせにおりかづきてそそきたまふときに所成坐神名なりませるかみのみなは八十禍津日神やそまがつひのかみ 訓禍云摩賀、下效此よみで「禍」を「まか」という、しもはこれにならふ次大禍津日神つぎにおおまがつひのかみ此二神者このふたばしらは所到其穢繁國之時かのきたなきしきくににいたりまししときの因汚垢而所成神之者也けがれによりてなりませるかみのものなり次爲直其禍而所成神名つぎにかのまがほなほさむとしてなりませるかみのみなは神直毘神かむなほびのかみ 毘字以音、下效此「毘」のじこへをもちふ、しもはこれにならふ次大直毘神つぎにおほなほびのかみ次伊豆能賣神つぎにいづのめのかみ 幷三神也あはせてみかみなり 伊以下四字以音「伊」よりしもよつじこへをもちふ次於水底滌時つぎにみなそこにそそきたまふときに 所成神名なりませるかみのみなは底津綿上津見神そこつわたつみのかみ次底筒之男命つぎにそこつつのをのみこと於中滌時なかにそそきたまふときに 所成神名なりませるかみのみなは中津綿上津見神なかつわたつみのかみ次中筒之男命つぎになかつつのをのみこと於水上滌時みづのうへにそそきたまふときに 所成神名なりませるかみのみなは上津綿上津見神うはつわたつみのかみ 訓上云宇閇よみで「上」を「うへ」といふ次上筒之男命つぎにうはつつのをのみこと
此三柱綿津見神者このみはしらのわたつみのかみは阿曇連等之祖神以伊都久神也あづみのむらじのおやがみともちいつくかみなり 伊以下三字以音、下效此「伊」よりしもみつじこへをもちふ、しもはこれにならふかれ阿曇連等者あづみのむらじらは其綿津見神之子かのわたつみのかみのみこ宇都志日金拆命之子孫也うつしひがなさくのみことのすゑなり 宇都志三字以音うつしのみつじこへをもちふ其底筒之男命かのそこつつのをのみこと中筒之男命なかつつのをのみこと上筒之男命三柱神者うはつつのをのみことのみはしらのかみは墨江之三前大神也すみのへのみまへのおほかみなり
於是ここに洗左御目時ひだりのみめをあらひたまひしときに 所成神名なりませるかみのみなは天照大御神あまてらすおほみかみ次洗右御目時つぎにみぎりのみめをあらひたまひしときに 所成神名なりませるかみのみなは月讀命つくよみのみこと次洗御鼻時つぎにみはなをあらひたまひしときに 所成神名なりませるかみのみなは建速須佐之男命たけはやすさのをのみこと 須佐二字以音すさのふたじこへをもちふ
右件八十禍津日神以下みぎりのくだりやそまがつひのかみより速須佐之男命以前はやすさのをのみことまで十四柱神者とをまりよつはしらのかみは 因滌御身所生者也おんみをそそきたまひたところによりてあれませるものなり
此時伊邪那伎命このときいざなぎのみことは大歡喜詔いたくよろこばしてのりたまはく
吾者生生子而あれはこうみうみて於生終得三貴子うみのはてにみつのたふときこをえたりと。」
卽其御頸珠之玉緖母由良邇すなはちそのみくびたまのたまをもゆらに 此四字以音、下效此このよつじこへをもちふ、しもはこれにならふ 取由良迦志而とりゆらかして 賜天照大御神而詔之あまてらすおおみかみにたまひてのりたまわく
汝命者いましみことは所知高天原矣たかまがはらをしるところかな。」
事依而賜也ことよさしたまふなり故其御頸珠名かれそのみくびたまのなを謂御倉板擧之神みくらたなのかみとまをす 訓板擧云多那よみて「板擧」を「たな」といふ次詔月讀命つぎにつくよみのみことにのりたまはく
汝命者いましみことは所知夜之食國矣よるのをすくにをしるところかな。」
事依也ことよさしたまふなり 訓食云袁須よみて「食」を「をす」といふ次詔建速須佐之男命つぎにたてはやすさのをのみことにのりたまはく
汝命者いましみことは所知海原矣うなはらをしるところかな。」
事依也ことよさしたまふなり
かれ各隨依賜之命おのおのよらしたまひしみことのまにまに 所知看之中しろしめすなかに速須佐之男命すさのをのみこと不知所命之國而みことのくにをしらざずして八拳須至于心前やつかひげむなさきにいたるまで啼伊佐知伎也なきいさちきなり 自伊下四字以音、下效此「伊」よりしもよつじこへをもちふもちふ、しもはこれにならふ其泣狀者かのなきふすものは青山如枯山泣枯あをやまのからやまなすなきからし河海者悉泣乾かはうなはことごとくなきほしき是以惡神之音これをもてあしきかみのこえ如狹蠅皆滿さばへなすみなみち萬物之妖悉發よろずのものわざはいことごとくにおこりきかれ伊邪那岐大御神いざなぎのおほみかみ詔速須佐之男命はやのすさのをのみことにのりたまはく
何由以なにとかも汝不治所事依之國而いましはことよのくにをおさめずして哭伊佐知流なきいさちるや。」
爾答白こたへてまをしたまはく
僕者欲罷妣國根之堅洲國やつがれはははのくにねのかたすくににまからむとほっす故哭ゆへになく。」
爾伊邪那岐大御神大忿怒詔ここにいざなぎのおほみかみいたくいかりのりたまはく
然者汝不可住此國。しからばいましはこのくにはなすみそ
乃神夜良比爾夜良比賜也すなはちかむやらひによらひたまひきなり 自夜以下七字以音「夜」よりしもなのじこへをもちふかれ其伊邪那岐大神者かのいざなぎのおほかみは坐淡海之多賀也あふみのたがにますなり

こうして、伊邪那岐大神いざなぎのおおかみは「わたしはこれまでひどく醜い穢れた國に行ってしまったものだ。ゆえに私は身體を祓い淸めよう」と言われて、筑紫つくし日向ひむかたちばな小門おど阿波岐原あわぎはらにお行きになって禊ぎ祓いをされました。
そこで、投げ棄てた御杖みつえから現れた神の名を衝立船戶つきたつふなとの神といいます。
次に、投げ棄てた御帶みおびから現れた神の名を道之長乳齒みちのながちはの神といいます。
次に、投げ棄てた御嚢みふくろから現れた神の名を時量師ときはからしの神といいます。
次に、投げ棄てた御衣みきぬから現れた神の名を和豆良比能宇斯わづらいのうしの神といいます。
次に、投げ棄てた御褌みはかまから現れた神の名を道俣ちまたの神といいます。
次に、投げ棄てた御冠みかんむりから現れた神の名を飽咋あきぐい宇斯うしの神といいます。
次に、投げ棄てた左の御手みて手纒たまきから現れた神の名を奧疎おきざかるの神といいます。さらに、奧津那藝佐毗古おきつなぎさびこの神、またさらに、奧津奧津甲斐辯羅おきつかいべらの神が現れてました。
次に、投げ棄てた右の御手みて手纒たまきから現れた神の名を邊疎へざかるの神といいます。さらに、 邊津那藝佐毗古へつなぎさびこの神、またさらに、邊津甲斐辯羅へつかいべらの神が現れました。

右の件(ここまで)、船戶ふなとの神から、邊津甲斐辯羅へつかいべらの神までの十二柱の神は、伊邪那岐大神が身に著けていたものを脫ぎ捨てたことから現れた(生まれた)神です。

そして、伊邪那岐大神は、「上の瀨は流れが速い、下の瀨は流れが弱い」と言って、初めて中程の瀨に降りて潛り、その身體を濯がれた時に現れた神の名を八十禍津日やそまがつひの神といいます。さらに大禍津日おおまがつひの神が現れました。この二柱の神は、かの醜く穢れた國に行った時の穢れから現れた神です。
次に、そのまがを直そうとして現れた神の名は神直毗かむなおびの神といいます。さらに、大直毗おおなおびの神、またさらに、伊豆能賣いずのめの神が現れました。
次に、水の底で身體を濯がれた時に現れた神の名を底津綿津見そこつわたつみの神といいます。さらに、底筒之男命そこつつのおのみことが現れました。
水の中程で身體を濯がれた時に現れた神の名を中津綿津見なかつわたつみの神といいます。さらに中筒之男命なかつつのおのみことが現れました。
水面近くで身體を濯がれた時に現れた神の名を上津綿津見うわつわたつみの神といいます。さらに、上筒之男命うわつつのおのみことが現れました。

この三柱の綿津見わたつみの神は、阿曇連あづみのむらじたちが祖先の神として大切に祀る神です。つまり、阿曇連たちは、綿津見の神の子、宇都志日金拆命うつしひがなさくのみことの子孫です。そして底筒之男命そこつつのをのみこと中筒之男命なかつつのおのみこと上筒之男命うわつつのをのみことの三柱の神は、墨江すみのえ三前みまえの大神です。

そして、左の目を洗った時に現れた神の名を天照大御神あまてらすおおみかみといいます。
次に、右の目を洗った時に現れた神の名を月讀命つくよみのみことといいます。
次に、鼻を洗った時に現れた神の名を建速須佐之男命たけはやすさのおのみことといいます。
右の件(ここまで)、八十禍津日やそまがつひの神から、速須佐之男命はやすさのおのみことまで、十四柱の神は、伊邪那岐大神が身體をお濯ぎになったことから現れた(生まれた)神です。

この時、伊邪那岐命は大いに喜んで、「私は子を生みに生んで、最後に三柱の貴い子たちを得ることができた」と言われて、すぐにその首飾りの玉の緖を、手に取ってゆらゆらと搖らして音を鳴らしながら天照大御神に授け、「あなたは高天原を統治するように」と委任されました。それで、その首飾りの名は御倉板擧みくらたなの神といいます。次に、月讀命に、「あなたは、夜之食國よるのおすくにを統治するように」と委任されました。次に、建速須佐之男命に「あなたは、海原うなばらを統治するように」と委任されました。

そこで、それぞれの神が伊邪那岐命に委任された國を言われたとおりに治める中で、速須佐之男命は委任された國を治めずに、長い顎髭あごひげが胷元に屆くまで激しく泣いていた。
その泣く樣子は、靑々とした山を枯れ木の山のように泣き枯らし、河や海はことごとく泣き乾した。これにより、惡しき神のこえはえのように滿ちて、妖鬼によるありとあらゆる災いが起こった。
そこで、伊邪那岐の大御神は、須佐之男命に、「なぜお前は、私が委任した國を治めもせずに泣き喚いているのか」とお訊ねになると、須佐之男命は「私は母のいる國である、根之堅洲國ねのかたすくにに參りたいと思っています。だから泣いているのです。」とお答えになりました。
すると、伊邪那岐の大御神はたいへんお怒りになって、「ならば、お前はこの國に住んではならない」と言われ、ただちに須佐之男命を追放されました。そして、その伊邪那岐の大神は近江の多賀に鎭座されました。

スサノオは與えられた海の國を統治することを拒んでイザナミのいる根の堅洲國に行きたいと言う。根の堅洲國は地下の國であり「イザナミがいる國」を指しているところをみるとイザナギが逃げ出した黃泉の國である。
怒ったイザナギはスサノオを追放し多賀(滋賀縣犬上郡)に引退する。イザナギの話はここで終わり、古事記では次はスサノオとアマテラスの話となる。