「言忠信、 行篤敬、 雖蠻貊之邦行矣。」
誠哉斯言。 其俗之可採者、 豈徒楛矢之貢而已乎。 自髙祖撫有周餘、 惠此中國。 開皇之末、 方事遼左、 天時不利、 師遂無功。 二代承基、 志包宇宙、 頻踐三韓之域、 屢發千鈞之弩。 小國懼亡、 敢同困獸、 兵連不戢、 四海騷然、 遂以土崩、 䘮身滅國。 兵志有之曰
「務廣德者昌、 務廣地者亡。」
然遼東之地、 不列於郡縣久矣。 諸國朝正奉貢、 無闕於歲時、 二代震而矜之、 以爲人莫若己、 不能懐以文德、 遽動干戈。 內恃富強、 外思廣地、 以驕取怨、 以怒興師。 若此而不亡、 自古未聞之也。 然則四夷之戒、 安可不深念哉。
史臣記錄を司る官職の言うには、廣い谷と大きな河は仕組みが違い、人の生活はそれぞれ風俗が違い、嗜好が違い、言葉が通じず、聖人がときに敎えの場を設けてその目的が達成するとその風俗に通じるのである。
中國周邊の九夷未開な九民族の住むところは中華とは遙かに隔たっているが、しかし、生まれつき從順で亂暴な樣子はない。
山々がずっと遠くまで連なる森林であっても簡單なことのように道を見極める。
夏・殷の時代に、ときに或いは、王が來た。意味不明。字の閒違い?箕子殷の二十八代王の文武丁の子で、現在の北朝鮮で箕子朝鮮を建國したが避地の朝鮮に中國から逃げて及ぶと初めて八條之禁法禁八條・犯禁八條を持った。決まり事が少ない簡單な刑法なので粗いものだが惡事を漏らさず、簡單で長く利用できて敎えを自分たちのものにして千年經っても絕えない。
今、遼東の諸國の人は冕板のついた冠の姿でやって來るかもしれないし、飮食するのに机や高坏を使うかもしれない。儒學の經典を硏究することを好み、文學・史學を愛好し、隋の都に遊學する者は故鄕と往復し、または故鄕に歸らずに死ぬかもしれない。
昔のすぐれた思想家の習慣ではなくて、誰がそれを上手く行えるだろうか。
そこで孔子が言うには
「言葉と行動が誠實でつつしみ深ければ、野蠻な國であっても、必ず思い通りのことができるだろう。」
本當にその通りである。
その風俗を採り上げるのは、どうして「楛矢之貢」だけであろうか。高祖より中國の周邊を宥めてきたことでこの中國に惠みがあった。開皇の終わり文帝の治世は西曆六百年までにまさに遼左遼東のことで高句麗が遼西に侵攻したので報復として高句麗遠征を行ったが、運が味方をせず戰果がなかった。
二代目の皇帝煬帝は國の基盤を受け繼ぎ、志は全世界を包み、何度も三韓の地域朝鮮半島南部に侵攻し、ときには千鈞の弩一鈞=三十斤、一斤=六百グラム、千鈞=三萬斤=十八トンのように敵の領土の奧深くに攻め入った。小國が滅亡することを畏れるのは獸が追い詰められるのと同じで、兵士を集めて戰鬭態勢を解かなかった最後まで抵抗する。天下は不穩になり、ついに土が崩れるように皇帝煬帝は殺され國隋は滅びた。兵志に書かれていることによると
「德を廣めれば榮え、領土を廣げれば滅びる」
しかるに、遼東の地は侵攻を繰り返しても長らく郡や縣に名前を連ねていない。中國が支配することができていない。
諸國の王室は規則正しく朝貢し、歲時も缺かさなかった。二代皇帝はこれに自信を持ち、自分を超える者はこの世にはいないと思い、文德を心に持たず、慌ただしく兵器を動かす。軍隊をあちこちに出したの意味?國内の富强に賴って領土を擴げることを思い、驕って恨みを買い、怒りから戰爭を起こす。このようにして滅ばなかったことは昔から聞いたことがない。そうであるなら四夷中國の周圍四方向にいる未開人の戒めをどうして深く考えないでいられようか。
俀國について書かれた後に區切りがなく引き續き書かれているので「俀國(三)」にしているが、この頁はすべて「東夷の後書き」相當で俀國のことは書かれていない。
讀み下し、現代語譯ともに無理やり書いたが全く上手くできている自信がない。持ってまわった書き方をされると何を言おうとしているのかすらわからないので、なおさら上手く讀めないし譯せない。