隋書 卷八十一 俀國(三)東夷の後書き相当

史臣曰ししんいはく廣谷大川異制こうこくだいせんせいをことにし人生其間異俗にんせいそのかんぞくをいにし嗜欲不同しよくどうならず言語不通げんごつうじず聖人因時設教せいじんよりてときにおしえるをもうけ所以達其志而通其俗也そのこころざしのたっするをもってそのぞくにつうずるところなり九夷所居きゅういのきょするところ與中夏懸隔ちゅうかとけんかくなり然天性柔順しかるにてんせいじゅうじゅんにして無獷暴之風こうぼうのふうなく雖緜邈山海めんばくさんかいといへども而易以道御みちをぎょするはもってやすし殷之代いんのだい時或來王ときにあるいはおうきたり暨箕子避地朝鮮きしのへきちのちょうせんにおよび始有八條之禁はじめてはちじょうのきんあり疎而不漏そにしてもらさず簡而可久かんにしてひさしくかにして化之所感かのしょかん千載不絶せんざいふぜつなり今遼東諸國いまりょうとうのしょこく或衣服參冠冕之容あるいはいふくにかんべんのようでさんし或飲食有爼豆之器あるいはいんしょくにそとうのきあり好尚經術けいじゅつをこうしょうし愛樂文史ぶんしをあいぎょうし遊學於京都者きょうとにゆうがくするものは往來繼路けいろをおうらいし或亡沒不歸あるいはぼうぼつしてかえらず非先哲之遺風せんてつのいふうあらず其孰能致於斯也そのだれよくかくにいたすや故孔子曰ゆへにこうしいはく
言忠信げんちゅうしん行篤敬こうとっけいなれば雖蠻貊之邦行矣ばんぱくのくにといへどもおこなわれん。」
誠哉斯言まことなるかなこのげん其俗之可採者そのぞくのとるべきは豈徒楛矢之貢而已乎あにただにこやのこうのみならんや自髙祖撫有周餘こうそよりしゅうよをぶすありて惠此中國このちゅうごくをめぐむ開皇之末かいこうのすえ方事遼左まさにりょうさをことあり天時不利てんときにりさず師遂無功いくさはついにこうなし二代承基にだいはもとをうけ志包宇宙こころざしはうちゅうをつつみ頻踐三韓之域しきりにさんかんのいきをふみ屢發千鈞之弩しばしばせんきんのどをはっする小國懼亡しょうこくのほろびるをおそれるは敢同困獸あえてこんじゅうにおなじくし兵連不戢へいをつらねておさめず四海騷然しかいそうぜんとして遂以土崩ついにどほうをもって䘮身滅國みをうしないくにをほろぼす兵志有之曰へいしにあるのいはく
務廣德者昌とくをひろむるをつとめるはさかん務廣地者亡ちをひろむるをつとめるはほろぶ。」
然遼東之地しかるにりょうとうのち不列於郡縣久矣ぐんけんにひさしくつらねず諸國朝正奉貢しょこくのちょうはまさにこうをたてまつり無闕於歲時さいじにけつなく二代震而矜之にだいふるいてこれをほこり以爲人莫若己もってひとをなすにおのれにしくはなく不能懐以文德もんとくをもっていだくにあたわず遽動干戈にはかにかんかうごかす內恃富強うちのふきょうをたのみ外思廣地そとにこうちをおもい以驕取怨おごるをもってうらむをとる以怒興師いかりをもっていくさをおこす若此而不亡このごとくほろばずは自古未聞之也いにしへよりきかず然則四夷之戒しからばすなはちしいのかい安可不深念哉いずくんぞふかくねんじざるや

史臣記錄を司る官職の言うには、ひろい谷と大きな河は仕組みが違い、人の生活はそれぞれ風俗が違い、嗜好が違い、言葉が通じず、聖人がときに敎えの場を設けてその目的が達成するとその風俗に通じるのである。 中國周邊しゅうへん九夷きゅうい未開な九民族の住むところは中華とは遙かに隔たっているが、しかし、生まれつき從順で亂暴らんぼうな樣子はない。 山々がずっと遠くまで連なる森林であっても簡單なことのように道を見極める。 いんの時代に、ときに或いは、王が來た。意味不明。字の閒違い?箕子きし殷の二十八代王の文武丁の子で、現在の北朝鮮で箕子朝鮮を建國したが避地の朝鮮に中國から逃げて及ぶと初めて八條之禁はちじょうのきん法禁八條・犯禁八條を持った。決まり事が少ない簡單な刑法なので粗いものだが惡事を漏らさず、簡單で長く利用できて敎えを自分たちのものにして千年經っても絕えない。
今、遼東の諸國の人は冕板べんばんのついた冠の姿でやって來るかもしれないし、飮食するのに机や高坏たかつきを使うかもしれない。儒學の經典を硏究することを好み、文學・史學を愛好し、隋の都に遊學する者は故鄕と往復し、または故鄕にかえらずに死ぬかもしれない。
昔のすぐれた思想家の習慣ではなくて、誰がそれを上手く行えるだろうか。 そこで孔子が言うには
「言葉と行動が誠實せいじつでつつしみ深ければ、野蠻やばんな國であっても、必ず思い通りのことができるだろう。」
本當ほんとうにその通りである。
その風俗を採り上げるのは、どうして「楛矢之貢こやのこう」だけであろうか。高祖より中國の周邊しゅうへんを宥めてきたことでこの中國に惠みがあった。開皇の終わり文帝の治世は西曆六百年までにまさに遼左遼東のこと高句麗が遼西に侵攻したので報復として高句麗遠征を行ったが、運が味方をせず戰果がなかった。
二代目の皇帝煬帝は國の基盤を受け繼ぎ、志は全世界を包み、何度も三韓の地域朝鮮半島南部に侵攻し、ときには千鈞の一鈞=三十斤、一斤=六百グラム、千鈞=三萬斤=十八トンのように敵の領土の奧深くに攻め入った。小國が滅亡することを畏れるのは獸が追い詰められるのと同じで、兵士を集めて戰鬭態勢を解かなかった最後まで抵抗する。天下は不穩になり、ついに土が崩れるように皇帝煬帝は殺され國は滅びた。兵志に書かれていることによると
「德を廣めれば榮え、領土を廣げれば滅びる」 しかるに、遼東の地は侵攻を繰り返しても長らく郡やけんに名前を連ねていない。中國が支配することができていない。 諸國の王室は規則正しく朝貢し、歲時もかさなかった。二代皇帝はこれに自信を持ち、自分を超える者はこの世にはいないと思い、文德を心に持たず、慌ただしく兵器を動かす。軍隊をあちこちに出したの意味?國内の富强に賴って領土を擴げることを思い、おごって恨みを買い、怒りから戰爭を起こす。このようにして滅ばなかったことは昔から聞いたことがない。そうであるなら四夷中國の周圍しゅうい四方向にいる未開人の戒めをどうして深く考えないでいられようか。

俀國について書かれた後に區切りがなく引き續き書かれているので「俀國(三)」にしているが、この頁はすべて「東夷の後書き」相當で俀國のことは書かれていない。


讀み下し、現代語譯ともに無理やり書いたが全く上手くできている自信がない。持ってまわった書き方をされると何を言おうとしているのかすらわからないので、なおさら上手く讀めないし譯せない。