有阿蘇山、 其石無故火起接天者、 俗以爲異、 因行禱祭。 有如意寶珠、 其色青、 大如雞卵、 夜則有光、 云魚眼精也。
新羅、 百濟皆以俀爲大國。 多珎物、 並敬仰之、 恒通使往來。
大業三年、 其王多利思北孤遣使朝貢。 使者曰
「聞海西菩薩天子重興佛法、 故遣朝拜、 兼沙門數十人來學佛法。」
其國書曰 「日出處天子 至書日没處天子 無恙」 云云。
帝覽之不悅、 謂鴻臚卿曰
「蠻夷書有無禮者、 勿復以聞。」
明年、 上遣文林郎斐清使於俀國。 度百濟、 行至竹嶋、 南望
其人同於華夏、 以爲夷州、 疑不能明也。 又經十餘國、 達於海岸。 自竹斯國以東、 皆附庸於俀。 俀王遣小德阿輩臺、 従數百人、 設儀仗、 鳴鼓角來迎。 後十日、 又遣大禮哥多毗、 従二百余騎郊勞。 既至彼部、 其王與清相見、 大悦、 曰
「我聞海西有大隋、 禮義之國、 故遣朝貢。 我夷人僻在海隅、 不聞禮義、 是以稽留境内、 不即相見。 今故清道飾館、 以待大使、 冀聞大國惟新之化。」
清答曰
「皇帝德並二儀、 澤流四海、 以王慕化、 故遣行人來此宣諭。」
既而引清就館。 其後清遣人謂其王曰
「朝命既達、 請即戒塗。」
於是設宴享以遣清、 復令使者隨清來貢方物。 此後遂絕。
その俗は殺人・强盜及び强姦は全て死刑で、盜みはその盜んだものを計って物で辯濟し、辯濟する財產のない者は身分が下がって奴隸になる。その他は罪の重い輕いで流罪となったり杖罪木の枝で體を打つ刑罰になる。
裁判の取り調べ每に罪を認めなければ木で膝を押し、强弓の弦を張ってその弦を滑らせてその首を擦る。
あるいは、沸騰した湯に小石を入れて爭っている者にこれを手探らせて正しいことを言ってそれが嘘であれば手が爛れる。あるいは、甁の中に虵を入れその虵を取らせて嘘を付いていれば手を咬まれる。
人々はとても穩やかで爭うことはまれであり、盜賊は少ない。
音樂は、五弦五弦琵琶、琴、笛がある。
男女共に肘や顏や體に入れ墨をしている人が多く、水に潛って魚を捕る。
文字は無く、ただ木を刻んで繩を結んで傳達手段にしている。
佛法を敬い百濟に佛敎の經典を求めてそれにより初めて文字を得る。
卜筮うらないのこと、卜は龜甲占い、筮は現在も見かける筮竹を使った占いを知り、もっとも神降ろしをする祈祷を信じる。
每年元日になると必ず矢を射つ行事馬射戲であれば高句麗の流鏑馬のことらしいが、射戲は何か判らなかったので「矢を射る行事」とした。を行い酒を飮む。その他の節の行事は中國とほぼ同じである。將棋・すごろく・樗蒲板を投げて裏表で駒を進める賭博の遊戲を好む。
氣候は溫暖で草木は冬でも枯れずに葉が綠で土地は肥沃である。小さな環を鵜の首にかけて水に入らせて魚を獲らせ一日に百匹以上の漁獲がある。
その風俗は、まな板は無く、食事の敷物には柏の葉を使い、食事で食べ物を口に入れるのに手を使う。
性質は性格はまっすぐ素直であり風流でもある。女性が多く男性が少なく、嫁入りは同姓を取らない。男女が共に喜ぶなら結婚する。好き同士であれば結婚する?
嫁入りする女性が夫の家に入る際は先ず犬を跨ぎ、それから夫と顏を見合わせる。
婦人は淫らではなく嫉妬もしない。
人が死んだときは棺と棺を覆う槨に納め、親戚は
屍の傍で歌舞し、妻子や兄弟は白い布で喪服を作る。
貴人であればすぐには埋葬せず三年閒外に置いて別れを惜しむ殯を行い、庻民であれば埋葬日を占って、埋葬地まで屍を船に載せて陸上を牽いて運ぶか、または小さな輿に載せて運んだ。
俀國には阿蘇山があり、その岩山が突然噴火して噴煙が天に接するほどになれば普通のことではないので祈祷や祭りを行う。
佛敎において靈驗を表すとされる寶の珠である如意寶珠あり。その色は靑く、大きさは鷄卵ほどもある。夜になると光るので魚眼の精だと言われた。
新羅と百濟はみな俀を大國だと思っている。珍しいものが多く、どちらもこれを敬っている。常にこれらの國の使節が往來している。
隋の二代皇帝である煬帝の治世西曆六百五−六百十八年である大業三年西曆六百七年、
その王の多利思北孤は使節を遣わして朝貢した。
使者が言うには、
「俀國の海の西の菩薩天子煬帝ではなく父親である文帝楊堅のことが再び佛法を興したと聞いたので、だから拜謁する使節を送り、使節を兼ねて修行僧數十人が佛法を學びに來たのです。」
その國書がいうには
「日の出る國の天子が日の沈む國の天子に手紙を出します。ごきげんいかがですか。」云々。
皇帝の煬帝はこの内容を喜ばず、鴻臚卿が言うには
「野蠻人の手紙に無禮がある、このようなものは二度と奏上して聞かせるな。」
その翌年、上樣帝は文林郞役職名の斐淸裴世淸のことを俀國に返禮の使節として遣わした。中國からその東にある百濟に渡って百濟の西の端にある竹嶌に至り、そこから南に羅國濟州島を見ながら、都斯麻國對馬を經由して、そのはるか大海の中にある。
また、東に進むと一支國に到著する。またそこから竹斯國に至り、また東に進むと秦王國に到著する。その人々は中國と同じで、これを未開な野蠻人の地である夷州とするのはおかしなことである。また、十國以上を經由して海岸に達する。竹斯國よりも東は經由した十國以上を含めてすべて俀に從屬している。
俀王は小德上から二番めの階位の阿輩臺を遣わして、數百人を從え儀仗從者を竝べて儀禮の場をを設けて、鼓角つづみと角笛を鳴らして歡迎した。十日後にはまた、大禮日本書紀によると上から五番目の階位。中國の順位では七番目の位の哥多毗を遣わして二百騎以上を從えて郊勞した。
すでに、かの都?に到著し、その王は裴世淸と對面し、とても喜んで言った。
「私は海の西に大隋帝國という禮儀の國があると聞いて使節を送って朝貢しました。私は夷人で海の隅にある邊境では禮儀を聞くことがありません。このまま境内御所内に畱まっていてはお會いすることができなかったでしょう。今、特別に道を掃除して館を飾って大使をお待ちしていました。願わくば大國維新について敎えて下さい。化=敎化でここでは敎えると譯した。」
裴世淸が答えて言った。
「皇帝の德は二儀が竝び、澤は周りの海に流れる。王が敎えを求めるのであれば佛門の人を遣わしてお敎えしましょう。」
會見が終わると裴世淸を連れて館に就いた。その後、裴世淸は人を遣わして王に言うには
「すでに中國の朝廷からの命令を達成しました。道を戒めることを要請します。歸りたい?」
そこで、宴の席を設けて裴世淸に遣わし、また裴世淸に使者を伴って來させて寶物を貢いだ。裴世淸は隋に歸った。
この後、隋が滅ぶので隋と俀との交流は遂に途絕えた。
西曆六百年の文帝の時代にも一度朝貢している歸還できたかは不明にも關わらず「海の西の菩薩天子が佛敎を復興したと聞いたので朝貢しました」としらばっくれて奏上したのである。しかも、菩薩天子と稱えたのは煬帝が殺したその父親の文帝のことであるから煬帝にとっては面白くない筈である。さらに主の目的は佛敎畱學で朝貢は副の目的であるという皇帝のメンツを潰す發言。追い打ちで例の手紙であるから日本側の使者小野妹子らは幾つ命があっても足りない狀態。メンタルのタフネスぶりには驚かされる。
意外にも日本の使者は無事で、返使の裴世淸は倭國に好意的な記錄を殘しているのであるから不思議なことである。隋書には書かれていないが、小野妹子は裴世淸の歸國に同行して再度隋を訪れ、その後再び歸國できている。古代日本最强のラックの持ち主であるといえる。