隋書 卷八十一 俀國(二)

其俗殺人強盜及奸皆死そのぞくさつじんごうとうおよびかんはみなし盜者計贓酬物ぬすむものはぞうをはかりものをむくい無財者没身爲奴ざいなきものはみをぼっしてくとなす自餘輕重じよはけいじゅう或流或杖あるいはながしあるいはじょうす每訊究獄訟ごくしょうをじんきゅうするごとに不承引者しょういんせざるものは以木壓膝きをもってひざをおし或張強弓あるいはごうきゅうをはり以弦鋸其項げんをもってそのうなじをのこす或置小石於沸湯中あるいはこいしをふっとうのなかにおき令所競者探之きそうところのものこれをさぐらしめ云理曲者即手爛ことわりをいひてまがるはすなはちてただる或置蛇瓮中あるいはへみをかめのなかにおき令取之これをとらしめ云曲者即螫手矣まがるをいふはすなはちてをさす人頗恬靜ひとすこぶるてんせいにして罕爭訟そうしょうまれに少盜賊とうぞくすくなし樂有五弦がくはごげんきんてきあり男女多黥臂點面文身だんじょおおくひじにげいしつらにさしみにもんし没水捕魚みずにぼっしてさかなをとる無文字もじなく唯刻木結繩ただきをきざみてなわをゆう敬佛法ぶっぽうをうやまひ於百濟求得佛經くだらにおいてぶっきょうをもとめて始有文字はじめてもじあり知卜筮ぼくぜいをしり尤信巫覡もっともぶげきをしんじる每至正月一日しょうがつついたちにいたるごとに必射戲飲酒かならずたわむれいてさけをのむ其餘節略與華同そのよのせつはほぼかとおなじ好棊博きはく握槊あくさく樗蒲之戲ちょぼのぎをこのむ氣候溫暖きこうおんだん草木冬青くさきふゆもあおく土地膏腴とちこうゆ水多陸少みずおおくりくすくなし以小環挂鸕鷀項しょうかんをもってろじのうなじをかけ令入水捕魚みずにいりてさかなをとらしめ日得百餘頭ひにひゃくよとうをえるぞく無盤俎ばんそうなく藉以檞葉しくにかしわのはをもって食用手哺之しょくすにこれをふくむにてをもちう性質直せいしつはちょくで有雅風がふうあり女多男少おんなおおくおとこすくなく婚嫁不取同姓こんかはどうせいをとらず男女相悅者即爲婚だんじょあいよころべばすなはちこんをなす婦入夫家ふふかにいるに必先跨犬かならずさきにいぬをまたぎ乃與夫相見すなはちおっととあいみる婦人不淫妬ふじんいんとせず死者歛以棺槨ししゃはかんかくをもっておさめ親賓就屍歌舞しんせきはしかばねについてかぶし妻子兄弟以白布制服さいしきょうだいははくふをもってふくをせいす貴人三年殯於外きじんはさんねんそとにてもがり庶人卜日而瘞しょにんはひをうらないうずむ及葬ほうむるにおよび置屍舩上しかばねをせんじょうにおき陸地牽之りくちにこれをひき或以小轝あるいはしょうよをもってす
有阿蘇山あそざんあり其石無故火起接天者そのいわゆへなくひおこりてんにせっするは俗以爲異ぞくもっていとなし因行禱祭よりてとうさいをおこなう有如意寶珠にょいほうじゅあり其色青そのいろあおく大如雞卵おおきさけいらんのごとく夜則有光よるすなはちひかりありて云魚眼精也いうにぎょがんのせいなり
新羅しらぎ百濟皆以俀爲大國くだらたいをもってたいこくとなす多珎物ちんぶつおおく並敬仰之ならびてこれをあおぎうやまふ恒通使往來つねにしをつうじておうらいす
大業三年たいぎょうさんねん其王多利思北孤遣使朝貢そのおうたりしほこしをつかはしちょうこうす使者曰ししゃいはく
聞海西菩薩天子重興佛法うみのにしにぼさつてんしかさねてぶっぽうをおこすをきき故遣朝拜ゆへにちょうはいつかはし兼沙門數十人來學佛法かねてしゃもんすうじゅうにんこりてぶっぽうをまなぶ。」
其國書曰そのこくしょいはく日出處天子ひいづるところのてんし 至書日没處天子ひぼっするところのてんしにしょをいたす 無恙つつがなしや云云うんぬん
帝覽之不悅ていこれをらんじてよろこばず謂鴻臚卿曰いひてこうろけいのいはく
蠻夷書有無禮者ばんいのしょぶれいなるものあり勿復以聞またもってきかせるなかれ。」
明年あくるとし上遣文林郎斐清使於俀國うえぶんりんろうはいせいをたいこくにつかはす度百濟くだらにわたり行至竹嶋いくにたけしまにいたり南望𨈭 聃の異体字羅國みなみにたんらこくをのぞみ經都斯麻國つしまこくをへて逈在大海中はるかたいかいちゅうにあり又東至一支國またひがしにいたるいきこく又至竹斯國またいたるちくしこく又東至秦王國またひがしにいたるしんおうこく
其人同於華夏そのひとかかにおなじ以爲夷州もっていしゅうとなすも疑不能明也うたがいあきらかにすることあたわざるなり又經十餘國またじゅうよこくをへて達於海岸かいがんにたっする自竹斯國以東ちくしこくよりいとう皆附庸於俀みなたいにふようする俀王遣小德阿輩臺たいおうしょうとくのあはたいをつかはし従數百人すうひゃくにんをしたがえ設儀仗ぎじょうをもうけ鳴鼓角來迎こかくをならしらいげいす後十日のちとほか又遣大禮哥多毗またたいれいのかたひをつかはし従二百余騎郊勞にひゃくよきをしたがへこうろうす既至彼部すでにかのぶにいたり其王與清相見そのおうせいとあいまみえ大悦おおいによろこびていはく
我聞海西有大隋われかいさいにだいずい禮義之國れいぎのくにあるをききて故遣朝貢ゆへにつかはしちょうこうす我夷人僻在海隅われいじんにしてかいぐうにへきざいし不聞禮義れいぎをきかず是以稽留境内これをもってけいだいにけいりゅうし不即相見すなはちあいまみえず今故清道飾館いまことさらにみちをきよめやかたをかざり以待大使もってたいしをまつ冀聞大國惟新之化こいねがうはたいこくいしんのかをきかん。」
清答曰せいこたへていはく
皇帝德並二儀こうていのとくはにぎにならび澤流四海さわはしかいにながる以王慕化おうかをしたうをもって故遣行人來此宣諭ゆへにぎょうにんをつかはしこりてここにせんゆす。」
既而引清就館すでにせいひきてやかたにつく其後清遣人謂其王曰そのごせいひとをつかはしそのおうにいひていはく
朝命既達ちょうめいすでにたっす請即戒塗こうすなはちみちをいましめんと。」
於是設宴享以遣清ここにえんきょうをもうけもってせいにつかはし復令使者隨清來貢方物またししゃをせいにしたがいてこらしめほうもつをみつぐ此後遂絕こののちついにとだへる

その俗は殺人・强盜及び强姦は全て死刑で、盜みはその盜んだものを計って物で辯濟べんさいし、辯濟する財產のない者は身分が下がって奴隸になる。その他は罪の重い輕いで流罪となったり杖罪木の枝で體を打つ刑罰になる。
裁判の取り調べ每に罪を認めなければ木で膝を押し、强弓の弦を張ってその弦を滑らせてその首を擦る。 あるいは、沸騰した湯に小石を入れて爭っている者にこれを手探らせて正しいことを言ってそれが嘘であれば手がただれる。あるいは、かめの中にへびを入れその虵を取らせて嘘を付いていれば手を咬まれる。
人々はとても穩やかで爭うことはまれであり、盜賊は少ない。
音樂は、五弦五弦琵琶、琴、笛がある。
男女共に肘や顏やからだに入れ墨をしている人が多く、水に潛って魚を捕る。 文字は無く、ただ木を刻んで繩を結んで傳達手段にしている。 佛法を敬い百濟に佛敎の經典を求めてそれにより初めて文字を得る。
卜筮ぼくぜいうらないのこと、卜は龜甲占い、筮は現在も見かける筮竹ぜいちくを使った占いを知り、もっとも神降ろしをする祈祷を信じる。
每年元日になると必ず矢を射つ行事馬射戲であれば高句麗の流鏑馬のことらしいが、射戲は何か判らなかったので「矢を射る行事」とした。を行い酒を飮む。その他の節の行事は中國とほぼ同じである。將棋・すごろく・樗蒲ちょぼ板を投げて裏表で駒を進める賭博の遊戲を好む。 氣候は溫暖で草木は冬でも枯れずに葉が綠で土地は肥沃である。小さな環をの首にかけて水に入らせて魚を獲らせ一日に百匹以上の漁獲がある。
その風俗は、まな板は無く、食事の敷物には柏の葉を使い、食事で食べ物を口に入れるのに手を使う。 性質は性格はまっすぐ素直であり風流でもある。女性が多く男性が少なく、嫁入りは同姓を取らない。男女が共に喜ぶなら結婚する。好き同士であれば結婚する? 嫁入りする女性が夫の家に入る際は先ず犬を跨ぎ、それから夫と顏を見合わせる。 婦人は淫らではなく嫉妬もしない。 人が死んだときはひつぎと棺を覆うかくに納め、親戚は 屍の傍で歌舞し、妻子や兄弟は白い布で喪服を作る。 貴人であればすぐには埋葬せず三年閒外に置いて別れを惜しむもがりを行い、庻民であれば埋葬日を占って、埋葬地まで屍を船に載せて陸上を牽いて運ぶか、または小さな輿こしに載せて運んだ。
俀國には阿蘇山があり、その岩山が突然噴火して噴煙が天に接するほどになれば普通のことではないので祈祷や祭りを行う。 佛敎ぶっきょうにおいて靈驗を表すとされるたからたまである如意寶珠にょいほうじゅあり。その色は靑く、大きさは鷄卵ほどもある。夜になると光るので魚眼の精だと言われた。
新羅しらぎ百濟くだらはみな俀を大國だと思っている。珍しいものが多く、どちらもこれを敬っている。常にこれらの國の使節が往來している。
隋の二代皇帝である煬帝ようだいの治世西曆六百五−六百十八年である大業たいぎょう三年西曆六百七年、 その王の多利思北孤たりしほこは使節を遣わして朝貢した。 使者が言うには、
俀國の海の西の菩薩天子煬帝ではなく父親である文帝楊堅のことが再び佛法を興したと聞いたので、だから拜謁する使節を送り、使節を兼ねて修行僧數十人が佛法を學びに來たのです。」
その國書がいうには
「日の出る國の天子が日の沈む國の天子に手紙を出します。ごきげんいかがですか。」云々。
皇帝の煬帝はこの内容を喜ばず、鴻臚卿こうろけいが言うには
「野蠻人の手紙に無禮がある、このようなものは二度と奏上して聞かせるな。」
その翌年、上樣帝は文林郞ぶんりんろう役職名斐淸はいせい裴世淸はいせいせいのことを俀國に返禮の使節として遣わした。中國からその東にある百濟に渡って百濟の西の端にある竹嶌に至り、そこから南に𨈭 聃の異體字羅國たんらこく濟州島を見ながら、都斯麻國つしまこく對馬を經由して、そのはるか大海の中にある。 また、東に進むと一支國いきこくに到著する。またそこから竹斯國ちくしこくに至り、また東に進むと秦王國しんおうこくに到著する。その人々は中國と同じで、これを未開な野蠻人の地である夷州いしゅうとするのはおかしなことである。また、十國以上を經由して海岸に達する。竹斯國よりも東は經由した十國以上を含めてすべて俀に從屬している。
俀王は小德しょうとく上から二番めの階位阿輩臺あはたいを遣わして、數百人を從え儀仗從者を竝べて儀禮の場をを設けて、鼓角つづみと角笛を鳴らして歡迎した。十日後にはまた、大禮だいらい日本書紀によると上から五番目の階位。中國の順位では七番目の位哥多毗かたひを遣わして二百騎以上を從えて郊勞した。 すでに、かの都に到著し、その王は裴世淸と對面し、とても喜んで言った。
「私は海の西に大隋帝國という禮儀の國があると聞いて使節を送って朝貢しました。私は夷人で海の隅にある邊境では禮儀を聞くことがありません。このまま境内御所内に畱まっていてはお會いすることができなかったでしょう。今、特別に道を掃除して館を飾って大使をお待ちしていました。願わくば大國維新について敎えて下さい。化=敎化でここでは敎えると譯した。
裴世淸が答えて言った。
「皇帝の德は二儀が竝び、澤は周りの海に流れる。王が敎えを求めるのであれば佛門の人を遣わしてお敎えしましょう。」 會見が終わると裴世淸を連れて館に就いた。その後、裴世淸は人を遣わして王に言うには
「すでに中國の朝廷からの命令を達成しました。道を戒めることを要請します。歸りたい?」 そこで、宴の席を設けて裴世淸に遣わし、また裴世淸に使者を伴って來させて寶物を貢いだ。裴世淸は隋に歸った。
この後、隋が滅ぶので隋と俀との交流は遂に途絕えた。

西曆六百年の文帝の時代にも一度朝貢している歸還できたかは不明にも關わらず「海の西の菩薩天子が佛敎を復興したと聞いたので朝貢しました」としらばっくれて奏上したのである。しかも、菩薩天子と稱えたのは煬帝が殺したその父親の文帝のことであるから煬帝にとっては面白くない筈である。さらに主の目的は佛敎畱學で朝貢は副の目的であるという皇帝のメンツを潰す發言。追い打ちで例の手紙であるから日本側の使者小野妹子らは幾つ命があっても足りない狀態。メンタルのタフネスぶりには驚かされる。
意外にも日本の使者は無事で、返使の裴世淸は倭國に好意的な記錄を殘しているのであるから不思議なことである。隋書には書かれていないが、小野妹子は裴世淸の歸國に同行して再度隋を訪れ、その後再び歸國できている。古代日本最强のラックの持ち主であるといえる。