開皇二十年、 俀王姓阿每、 字多利思北孤、 號阿輩雞彌、 遣使詣闕。 上 令所司訪其風俗。 使者言
「俀王以天爲兄、 以日爲弟、 天未明時出聽政、 跏趺坐、 日出便停理務、 云委我弟。」
高祖曰
「此大無義理。」
於是訓令改之。 王妻號雞彌、 後宮有女六七百人。 名太子爲利歌彌多弗利。 無城郭。 內官有十二等。 一曰大德、 次小德、 次大仁、 次小仁、 次大義、 次小義、 次大禮、 次小禮、 次大智、 次小智、 次大信、 次小信、 員無定數。 有軍尼一百二十人、 猶中國牧宰。 八十戶置一伊尼翼、 如今里長也。 十伊尼翼屬一軍尼。
其服飾、 男子衣帬襦、 其袖㣲小、 履如屨形、 漆其上、 繫之於腳。 人庶多跣足。 不得用金銀爲飾。 故時衣橫幅、 結束相連而無縫。 頭亦無冠、 但垂髪於兩耳上。
至隋、 其王始制冠、 以錦綵爲之、 以金銀鏤花爲飾。 婦人束髮於後、 亦衣帬襦裳、 皆有襈㩥。 竹爲梳、 編草爲薦、 雜皮爲表、 緣以文皮。 有弓、 矢、 刀、 矟、 弩、 䂎、 斧。 漆皮爲甲、 骨爲矢鏑。 雖有兵、 無征戰。 其王朝會、 必陳設儀仗、 奏其國樂。 户可十萬。
俀國倭國のことは百濟や新羅の東南にあり、水行と陸行で三千里のところにある。大海の中にあって山と島に暮らしている。
魏の時代には通譯を使って中國と通商する國が三十以上あった。やって來る者は皆が王を自稱した。
夷人未開な野蠻人は距離を里で計ることを知らないので、單に距離を日數で計る。次の文の距離の計り方を指すよう。
その國の範圍は東西に五ヶ月進む程度、南北に三ヶ月進む程度、それでそれぞれ陸地が終わり海に出る。その地勢は東が高く西が低い意味不明。邪靡堆に都がある。つまり、それは魏志に書かれている邪馬臺のことである。
昔に言われていたのは、邪馬臺は樂浪郡の境や帶方郡現在のソウル邊りを出發して一萬二千里で、會稽會稽山のことであれば現在の上海の近く、魏志に書かれていた會稽東治は現在の福州で臺灣の西對岸の東に在って儋耳にとても近い。魏志に書かれていた儋耳朱崖は現在の海南島にあった二郡のことで海南島はベトナムの近くなので見當違いも甚だしい。
後漢の初代皇帝である光武帝の治世西曆二十五−五十七年に使節を送って雒陽の朝廷に參内する。使者は自分のことを大夫小領主のこと=小國の王であると自稱した。
後漢の六代皇帝である安帝の治世西曆百六−百二十五年に再び使節を送って朝貢してきた。これを俀倭のことの奴國という。
後漢の十一代皇帝である桓帝在位西曆百四十六−百六十八年と後漢の十二代皇帝である靈帝在位西曆百六十八−百八十九年の閒にその倭國では大きな内亂が起こり互いに侵攻して長い閒國をまとめる主がいない狀態だった。一人の女性がいて卑彌呼という名前であった。鬼道に長けて大衆を巧みに導いた。そこで複數の國で共同して擔ぎ上げて王にした。卑彌呼には男性の弟兄弟姊妹の年下は全て弟なので性別を指定しているがいて卑彌呼を補佐して國を治めた。卑彌呼には女性の奴隸が千人いて、卑彌呼は建物の中に篭って出てこないのでその顏を見た人は殆どいなかった。ただ、二人の男性がいて卑彌呼王の食事の世話を行い、彼女の言葉を國民に知らせた。卑彌呼のための宮室と物見櫓と城の柵があってすべてには兵が居てそれを守衞していた。法はとても嚴しかった。魏から南北朝の齊や梁の時代
になっても代々中國と國交があった。
隋の文帝楊堅の治世の開皇二十年西曆六百年、俀王で、姓が阿每、字が多利思北孤、號が阿輩雞彌おおきみは使節を送って大興城長安の宮廷を訪れた。文帝は家來の役人から使者に倭國の風俗を尋ねられた。
使者が返答して言うには、
「俀王は天を兄として、日太陽を弟としている。早朝の日の出前に起き出して政治を行い、跏趺坐兩脚を組んで座るする。日が出れば政務を止めて言うには『我が弟に委ねる』と。」
文帝が言うには
「これは全く義理がない道理に合わない。」
そこで、これについて敎えて改めさせた。
俀王の妻は雞彌を號して、後宮にには六七百人の女性がいた。皇太子の名前は利歌彌多弗利である。
都には城郭が無かった。
上級役人には十二の位があった。
最も上の位が大德、以下高い順に、小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信である。日本書紀に書かれている冠位十二階の順序とは違っているが、仁義禮智信の五常の順で考えれば隋書に書かれている竝びの方が正しい。
役職の定員は決まっていない。
倭國全體で百二十人の軍尼がいて、これは中國の牧宰國司のようなものである。八十軒の家で一人の伊尼翼吳音で讀んで稻置のことではないかとされるを置いている。これは中國の里長さとおさのようなものである。十伊尼翼は一軍尼に屬する。
その服裝は、男性は上下の分かれた衣であり、袖は少し小さく履物は靴形のようなもので漆を塗ったものを足に履いている。庻民は裸足が多く、裝飾品には金や銀は使っていない。
衣服の橫は紐で結んでいて縫っていない。頭に冠は著けておらず髮は兩耳の上で縛りあとは垂らしている。
隋の時代になって俀王は官位を定め、衣服の色で位を示すようにし、金や銀で花を散りばめて裝飾した。
婦人は後ろで髮を束ね、また、上下に分かれた衣服や裳スカートを著て、全て袖襟に細めの帶狀の緣飾りをしている。襈㩥が單語であれば何のことか解らない。一字ずつが意味を持つのであれば「襈」は袖の緣飾り・裾の緣飾りのことであろう、「㩥」は細いという意味であるだろうとした。
竹を使って櫛にして、草を編んでむしろにし、革の端切れを表にして、細切りの革で緣取る。
弓、矢、刀、矟鉾、弩大弓、䂎小型の鉾、斧がある。
革に漆を塗って硬い板狀にして裝甲にして漆という字に動詞としての漆を塗るという意味があるが、その場合の讀み下し方が不明なので「うるしぬる」と無理な讀み方をしている、骨を削って空洞で音を鳴らして飛ぶ鏑矢を作る。軍隊はあるが、倭國から他所の國に攻め入る戰いはしたことがない。
その俀王は朝廷の朝會で必ず儀仗を出して置き、その國の音樂を奏でる。
俀國の家の數は十萬戶ほどある。
倭國を俀國と書いているのは例の「日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙無きや」で煬帝を激怒させたので、部下が忖度して倭に似た字で「弱い」という意味の「俀」を使って元が卑字の倭(弱い女性の意味を含む)をさらにはっきり貶めたと考えるのが普通かと思われる。違う說を唱える人もいるので斷定はしない。ここでは俀國と書かれているのを全て倭國には直さずにそのまま讀むことにする。
距離の單位を定めていないので距離の表し方が何日船に乘ったとか何日步いたという方法しかないとバカにしている。卑彌呼については過去の文獻をなぞっただけである。
開皇二十年の朝貢については日本側には記錄が無いようである。恥をかいたので書かなかったという可能性もあるが、使節團が無事に歸り著けなかったのでその派遣を無かったことにした可能性もある。隋の記錄を見る限りでは使節團の通譯が下手だったのか使者の說明が下手だったのか倭國のことを中國側に正しく認識させることができなかったようである。
其王朝會必陳設儀杖奏其國樂については全く意味不明である。中國側の創作なのか說明が正しく傳わらなかったことによる誤解か、事實だがそのことが日本側で後世に全く傳わっていないかだと思われる。