隋書 卷八十一 俀國(一)

俀國たいこく在百濟新羅東南くだらしらぎのなんとうにあり水陸三千里すいりくさんぜんり於大海之中依山㠀而居たいかいのなかにおいてさんとうによりてきょす魏時譯通中國ぎのときちゅうごくにえきつうし三十余國さんじゅうよこく皆自稱王みなみずからおうをしょうす夷人不知里數いじんりすうをしらず但計以日ただひをもってはかる其國境東西五月行そのこっきょうはとうざいごがつこう南北三月行なんぼくさんがつこう各至於海おのおのうみにいたる其地勢東高西下そのちせいとうこうせいか都於邪靡堆やまたいにみやこす則魏志所謂邪馬臺者也すなはちぎしのいうところのやまたいなるものなり古云去樂浪郡境いにしへにいうらくろうぐんのさかい 及帶方郡およびたいほうぐんをさるに 並一萬二千里ならびにいちまんにせんり在會稽之東かいけいのひがしにあり與儋耳相近たんじとあいちかし漢光武時かんのこうぶのとき遣使入朝しをつかわしてにゅうちょうし自稱大夫みずからをたいふとしょうす安帝時あんていのとき又遣使朝貢またしをつかわしてちょうこうし謂之俀奴國これをたいのなこくといふ桓靈之間かんれいのかん其國大亂そのくにおおいにみだれ遞相攻伐たがいにあいせめうつ歷年無主れきねんあるじなし有女子名卑彌呼じょしありてなをひみこ能以鬼道惑衆よくきどうをもってしゅうをまどはす於是國人共立爲王ここにおいてこくじんともにたちておうとなす有男弟だんていありて佐卑彌理國ひにをたすけくにをおさめる其王有侍婢千人そのおうひせんにんをはべらせ罕有見其面者まれにそのつらをみるものあり唯有男子二人給王飲食ただだんしふたりありておうのいんしょくをきゅうし通傳言語つうじてげんごをつたへる其王有宮室樓觀城柵そのおうきゅうしつせいかんじょうさくあり皆持兵守衛みなへいをじしてしゅえいす。爲法甚嚴はなはだきびしくほうをなす自魏至于齊梁ぎわりせいりょうにいたり代與中國相通だいだいちゅうごくとあいつうず
開皇二十年かいこうにじゅうねん俀王姓阿每たいおうせいはあま字多利思北孤あざなはたりしほこ號阿輩雞彌あはきみをごうし遣使詣闕しをつかわしけつにいたるうえ 令所司訪其風俗しょしをしてそのふうぞくをとわしむ使者言ししゃがいうには
俀王以天爲兄たいおうはてんをもってあにとなし以日爲弟ひをもっておととなす天未明時出聽政てんいまだあけざるときいでてまつりごとをきき跏趺坐かふざし日出便停理務ひいずればすなはちりむをとどめ云委我弟いふわがおとにゆだねると。」
高祖曰こうそいはく
此大無義理これおほいにぎりなし。」
於是訓令改之これにおいておしへてこれをあらためしむ王妻號雞彌おうのつまきみをごうし後宮有女六七百人こうきゅうにおんなろくしちひゃくにんあり名太子爲利歌彌多弗利たいしのなりかみたふりとなす無城郭じょうかくなし內官有十二等ないかんにじゅうにとうあり一曰大德ひとついはくだいとく次小德つぎしょうとく次大仁つぎだいにん次小仁つぎしょうにん次大義つぎだいぎ次小義つぎしょうぎ次大禮つぎだいらい次小禮つぎしょうらい次大智つぎだいち次小智つぎしょうち次大信つぎだいしん次小信つぎしょうしん員無定數いんにていすうなし有軍尼一百二十人ひとひゃくふたじゅうにんのくにあり猶中國牧宰なおちゅうごくのぼくさいのごとし八十戶置一伊尼翼はちじゅうこをいちいなきとしておく如今里長也いまのりちょうのごとくなり十伊尼翼屬一軍尼とほいなきひとくににぞくす
其服飾そのふくしょく男子衣帬襦だんしころもくんじゅにして其袖㣲小そのそでびしょう履如屨形はきものくつがたのごとくして漆其上そのうへにうるしぬり繫之於腳これをあしにつなぐ人庶多跣足にんしょせんそくおおし不得用金銀爲飾きんぎんをもちひてかざりとなしえず故時衣橫幅ゆへにときにころもはよこはば結束相連而無縫けっそくあひつらねてぬうなし頭亦無冠あたままたかんむりなく但垂髪於兩耳上ただりょうみみうえにかみをたらす
至隋ずいにいたり其王始制冠そのおうせいかんをはじめ以錦綵爲之きんさいをもってこれをなし以金銀鏤花爲飾きんぎんをもってはなをちりばめかざりとなす婦人束髮於後ふじんうしろにかみをたばね亦衣帬襦裳またくんじゅもをころもし皆有襈㩥みなせんせんあり竹爲梳たけをくしとなす編草爲薦くさをあみこもとなす雜皮爲表ぞうひをおもてとなし緣以文皮もんぴをもってふちどる有弓ゆみかたなさくさんおのあり漆皮爲甲かわをうるしぬりてこうとなし骨爲矢鏑ほねをやかぶらとなす雖有兵へいありといへども無征戰せいせんなし其王朝會そのおうちょうかいに必陳設儀仗かならずぎじょうをちんせつし奏其國樂そのくにのがくをそうす户可十萬こはじゅうまんばかり

俀國たいこく倭國わこくのこと百濟くだら新羅しらぎの東南にあり、水行と陸行で三千里のところにある。大海の中にあって山と島に暮らしている。
魏の時代には通譯を使って中國と通商する國が三十以上あった。やって來る者は皆が王を自稱した。
夷人いじん未開な野蠻人は距離をることを知らないので、單に距離を日數で計る。次の文の距離の計り方を指すよう。
その國の範圍は東西に五ヶ月進む程度、南北に三ヶ月進む程度、それでそれぞれ陸地が終わり海に出る。その地勢は東が高く西が低い意味不明邪靡堆やまたいに都がある。つまり、それは魏志に書かれている邪馬臺やまたいのことである。
昔に言われていたのは、邪馬臺は樂浪郡の境や帶方郡現在のソウル邊りを出發して一萬二千里で、會稽かいけい會稽山のことであれば現在の上海の近く、魏志に書かれていた會稽東治は現在の福州で臺灣の西對岸の東に在って儋耳たんじにとても近い。魏志に書かれていた儋耳朱崖しゅがいは現在の海南島にあった二郡のことで海南島はベトナムの近くなので見當違いも甚だしい。
後漢の初代皇帝である光武帝の治世西曆二十五−五十七年に使節を送って雒陽の朝廷に參内する。使者は自分のことを大夫たいふ小領主のこと=小國の王であると自稱した。 後漢の六代皇帝である安帝あんていの治世西曆百六−百二十五年に再び使節を送って朝貢してきた。これをたい倭のこと奴國なこくという。
後漢の十一代皇帝である桓帝かんてい在位西曆百四十六−百六十八年と後漢の十二代皇帝である靈帝れいてい在位西曆百六十八−百八十九年の閒にその國では大きな内亂が起こり互いに侵攻して長い閒國をまとめる主がいない狀態だった。一人の女性がいて卑彌呼ひみこという名前であった。鬼道に長けて大衆を巧みに導いた。そこで複數の國で共同して擔ぎ上げて王にした。卑彌呼には男性の弟兄弟姊妹の年下は全て弟なので性別を指定しているがいて卑彌呼を補佐して國を治めた。卑彌呼には女性の奴隸が千人いて、卑彌呼は建物の中に篭って出てこないのでその顏を見た人は殆どいなかった。ただ、二人の男性がいて卑彌呼王の食事の世話を行い、彼女の言葉を國民に知らせた。卑彌呼のための宮室と物見櫓と城の柵があってすべてには兵が居てそれを守衞していた。法はとても嚴しかった。魏から南北朝の齊や梁の時代 になっても代々中國と國交があった。
隋の文帝楊堅ようけんの治世の開皇二十年西曆六百年、俀王で、姓が阿每あまあざな多利思北孤たりしほこ、號が阿輩雞彌あはきみおおきみは使節を送って大興城長安の宮廷を訪れた。文帝は家來の役人から使者に倭國の風俗を尋ねられた。 使者が返答して言うには、
「俀王は天を兄として、日太陽を弟としている。早朝の日の出前に起き出して政治を行い、跏趺坐かふざ兩脚を組んで座るする。日が出れば政務を止めて言うには『我が弟に委ねる』と。」
文帝が言うには
「これは全く義理がない道理に合わない。」
そこで、これについて敎えて改めさせた。
俀王の妻は雞彌きみを號して、後宮にには六七百人の女性がいた。皇太子の名前は利歌彌多弗利りかみたふりである。
都には城郭が無かった。
上級役人には十二の位があった。 最も上の位が大德だいとく、以下高い順に、小德しょうとく大仁だいにん小仁しょうにん大義だいぎ小義しょうぎ大禮だいらい小禮しょうらい大智だいち小智しょうち大信だいしん小信しょうしんである。日本書紀に書かれている冠位十二階の順序とは違っているが、仁義禮智信の五常の順で考えれば隋書に書かれている竝びの方が正しい。 役職の定員は決まっていない。 倭國全體で百二十人の軍尼くにがいて、これは中國の牧宰ぼくさい國司のようなものである。八十軒の家で一人の伊尼翼いなき吳音で讀んで稻置いなぎのことではないかとされるを置いている。これは中國の里長りちょうさとおさのようなものである。十伊尼翼は一軍尼に屬する。
その服裝は、男性は上下の分かれた衣であり、袖は少し小さく履物は靴形のようなもので漆を塗ったものを足に履いている。庻民は裸足が多く、裝飾品には金や銀は使っていない。 衣服の橫は紐で結んでいて縫っていない。頭に冠は著けておらず髮は兩耳の上で縛りあとは垂らしている。 隋の時代になって俀王は官位を定め、衣服の色で位を示すようにし、金や銀で花を散りばめて裝飾した。 婦人は後ろで髮を束ね、また、上下に分かれた衣服や裳スカートを著て、全て袖襟に細めの帶狀のふち飾りをしている。襈㩥が單語であれば何のことか解らない。一字ずつが意味を持つのであれば「襈」は袖の緣飾り・裾の緣飾りのことであろう、「㩥」は細いという意味であるだろうとした。 竹を使って櫛にして、草を編んでむしろにし、革の端切れを表にして、細切りの革で緣取る。
弓、矢、刀、さくほこ大弓さん小型の鉾、斧がある。 革に漆を塗って硬い板狀にして裝甲にして漆という字に動詞としての漆を塗るという意味があるが、その場合の讀み下し方が不明なので「うるしぬる」と無理な讀み方をしている、骨を削って空洞で音を鳴らして飛ぶ鏑矢を作る。軍隊はあるが、倭國から他所の國に攻め入る戰いはしたことがない。
その俀王は朝廷の朝かいで必ず儀仗を出して置き、その國の音樂を奏でる。
俀國の家の數は十萬戶ほどある。

倭國わこく俀國たいこくと書いているのは例の「日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙無きや」で煬帝を激怒させたので、部下が忖度して倭に似た字で「弱い」という意味の「俀」を使って元が卑字の倭(弱い女性の意味を含む)をさらにはっきり貶めたと考えるのが普通かと思われる。違う說を唱える人もいるので斷定はしない。ここでは俀國と書かれているのを全て倭國には直さずにそのまま讀むことにする。
距離の單位を定めていないので距離の表し方が何日船に乘ったとか何日步いたという方法しかないとバカにしている。卑彌呼については過去の文獻をなぞっただけである。
開皇二十年の朝貢については日本側には記錄が無いようである。恥をかいたので書かなかったという可能性もあるが、使節だんが無事にかえり著けなかったのでその派遣を無かったことにした可能性もある。隋の記錄を見る限りでは使節團の通譯つうやくが下手だったのか使者の說明が下手だったのか倭國のことを中國側に正しく認識させることができなかったようである。
其王朝會必陳設儀杖奏其國樂については全く意味不明である。中國側の創作なのか說明が正しくつたわらなかったことによる誤解か、事實じじつだがそのことが日本側で後世に全く傳わっていないかだと思われる。