三国志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝 濊

濊南與辰韓わいみなみはしんかんと北與高句麗きたはこうくり沃沮接よくそとせっし東窮大海ひがしはたいかいにきはまり今朝鮮之東いまちょうせんのひがし 皆其地也みなそのちなり戶二萬こにまん昔箕子既適朝鮮むかしきしすでにちょうせんにゆき作八條之教はちじょうのおしへをつくり 以教之もってこれをおしへ無門戶之閉もんこのとざすなく 而民不爲盜たみぬすみをなさず其後四十餘世そのごしじゅうよせい朝鮮侯淮僭號稱王ちょうせんこうじゅんせんごうしおうをしょうす陳勝等起ちんしょうらおこり天下叛秦てんかはしんにそむきえんせい趙民避地朝鮮數萬口ちょうのたみちょうせんにちをさけることすうまんこう燕人衛滿えんじんのえいまん魋結夷服たいをゆひいふくして復來王之またきてこれをおおす漢武帝伐滅朝鮮かんのぶていちょうせんをうちほろぼし分其地爲四郡そのちをわけてしぐんとなす自是之後こののちより漢稍別かんややわかる無大君長くんちょうおおきなく自漢已來かんよりいらい其官有侯邑君そのかんこうゆうくんの三老さんろうありて統主下戶げこをとうしゅす其耆老舊自謂與句麗同種そのきろうふるくよりくりとどうしゅといふ其人性愿愨そのじんしょうげんかくにして少嗜欲しよくすくなく有廉耻れんちあり不請句麗くりにこわず言語法俗大抵與句麗同げんごほうぞくたいていくりにおなじくして衣服有異いふくいあり男女衣皆著曲領だんじょみなきょくれいをきてころもし男子繁銀花廣數寸だんしはしげくぎんかをすうすんにひろげ 以爲飾もってかざりとなす自單單大山領たんたんだいせんりょうより 以西屬樂浪にしはらくろうにぞくし自領以東七縣りょうよりひがしのしちけんは都尉主之といがこれをおさめ皆以濊爲民みなわいをもってたみがなす後省都尉のちにといをはぶき封其渠帥爲侯そのきょしをこうとなしてふうじ今不耐濊皆其種也いまふたいわいみなそのしゅなり漢末更屬句麗其俗重山川山川各有部分不得妄相涉入同姓不婚多忌諱疾病死亾輒損棄舊宅更作新居有麻布蠶桑作緜曉候星宿豫知年歲豐約不以誅玉爲寶常用十月節祭天晝夜飲酒歌舞名之爲舞天又祭虎以爲神其邑落相侵犯輒相罰責生口牛馬名之爲責禍殺人者償死少寇盜作矛長三丈或數人共持之能步戰樂浪檀弓出其地其海出班魚皮土地饒文豹又出果下馬漢桓時獻之
臣松之按
果下馬高三尺乘之可于果樹下行故謂之果下見博物志魏都賦

正始六年樂浪太守劉茂帶方太守弓遵 以領東濊屬句麗興師伐之不耐侯等舉邑降其八年詣闕朝貢詔更拜不耐濊王居處雜在民間四時詣郡朝謁二郡有軍征賦調供給役使遇之如民
わいは、南は辰韓しんかんと、北は高句麗こうくり沃沮よくそと接し、その東は大海日本海があって行き詰まる。現在三国時代−西晋、朝鮮半島の東側は全て濊の土地である。 戸数は二万。 昔、箕子きしは既に朝鮮に進出し、八条の教えを作って朝鮮の民にそれを教え、家の扉を閉めなくても民は盗みを行わなかった。その後、四十余りの代を経て、朝鮮侯のじゅん箕準きじゅん僭號せんごう自ら勝手にして王を称した。
陳勝達が決起して天下は秦にそむいて戦乱の世となり、当時の中国東北部の えんせいちょうの民の数万人が朝鮮の地に逃げた。 燕人の衛滿えいまんまげって夷服を着て行き来し、この朝鮮北部の王となった。漢の武帝は朝鮮を討ち滅ぼし朝鮮の地を四郡に分割した。 この後よりと漢は次第に分かれていった。偉大な君主はおらず、漢より後はこうゆうくんの三老がいて、身分の低い者を支配した。その長老は自分たちを高句麗と同種であるという。その性格は真面目で慎み深く欲望が深くなく恥を知る心がある。高句麗に物品を頼ったり要求したりはしない。 言語や法俗は大抵が高句麗と同じだが、衣服には違いがある。男女は皆が曲領きょくれい襟から前の合わせに続く部分の帯状の縁飾りが直線ではなく首の下辺りで角度の付いた服で、日本でも古墳時代−奈良時代に着ていたを着て、男性はしばしば銀を花のように数寸に広げたものを飾りとしていた。 單單大山領たんたんだいせんりょう長白ちょうはく山脈より西は樂浪らくろうに属し、單單大山領より東の七縣は都尉不耐城で楽浪東部都尉が治め、七縣それぞれ全て濊の民が行政を為した。後に都尉を省略し、その渠帥きょすい地域の首長をそれぞれの県の侯に封じ、現在三国時代−西晋の不耐濊王は全てその県侯の種である。