其四年、 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人、 上獻生口、 倭錦、 絳青縑、 緜衣、 帛布、 丹木、
掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
其六年、 詔賜倭難升米黃幢、 付郡假授。
其八年、 太守王頎到官。 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼 素不和。 遣倭載斯烏越等 詣郡說相攻擊狀、 遣塞曹掾張政等 因齎詔書、黃幢、 拜假難升米爲檄告喻之。
卑彌呼以死、 大作冡、 徑百餘步、 狥葬者奴婢百餘人。 更立男王、 國中不服、 更相誅殺、 當時殺千餘人。 復立卑彌呼宗女壹與、 年十三爲王、 國中遂定。 政等以檄告喻壹與、 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、 送政等還、 因詣臺、 獻上男女生口三十人、 貢白珠五千、 孔青大句珠二枚、 異文雜錦二十匹。
正始元年西曆二四〇年、
帶方郡の太守の弓遵は、建中校尉の梯儁らを派遣して、
魏帝から託された詔書と印綬を奉じて、倭國にもたらし倭王に授與した。それとともに、金、白絹、錦罽不明、刀、鏡、顏料を贈った。
倭王は、使者に文書を渡して詔恩への感謝を傳えた。
正始四年西曆二四三年、
倭王はふたたび大夫の伊聲耆掖邪狗ら八人を派遣して、奴隸、
倭錦、
絳靑縑、
緜衣、
帛布、
丹木、
、
短弓、矢を獻上した。
掖邪狗らは、皆 率善中郞將の位と印綬を授與された。
正始六年西曆二四五年、
魏國の第三代皇帝齊王曹芳は倭國の難升米に魏國の正當な司令官の權威を示す黃色い旗である黃幢を贈るよう詔を出し、帶方郡に授與させるよう委託した。
正始八年西曆二四七年、
新しい太守の王頎が帶方郡に赴任した。
倭國の女王卑彌呼は狗奴國の男王である卑彌弓呼とずっと不和であった。
倭國は、載斯烏越らを派遣して帶方郡を訪れ、共に攻擊する計畫を說明した。塞曹掾史の張政を派遣して旣に難升米に與えられることが決まっていた詔書、黃幢を持って來て授與したが、檄文による通告で魏國は援軍を出さない旨を傳えて難升米を諭した。
卑彌呼が死んだため大きな塚を作った。直徑は百步あまりで殉死して葬られたのは奴隸百人あまりである。
卑彌呼の後繼として男性の王を立てたが國中がその王には服さず、それどころか混亂して、殺し合い千人以上が死んだ。
また王が代わり卑彌呼の血統から十三歲の壹與を王として立てた。ついに國の混亂が收まった。
王が交替したので、しかも混亂も收まったので、倭國に來ている塞曹掾史の張政は檄文で朝貢するように壹與を諭した。壹與は倭の大夫である率善中郞將の掖邪狗ら二十人を魏國に派遣し、それと共に張政らを送り返した。
倭國の使者は魏の太祖である曹操の宮殿である銅雀臺を詣り、男女の奴隸を三十人と、白珠を五千個、
靑綠色の大きな勾玉を二個、
異文雜錦をを二十匹四十反を齊王に獻上した。
卑彌呼と壹與の時代だけが詳しく紹介されている。その頃の倭國というのは當時の中國魏國からすれば文化の遲れた蠻族であろうかと思われるが、何故か非常に好意的に書かれている。西曆二四五年といえば、遼東半島の戰亂が收まっている頃だと思われるが、魏の都まではどのように行ったのだろうか。ちなみに、その前の西曆二三八年の使者はまさに遼東半島で遼隧の戰いがあった年なのでおそらく陸路は無理で、樂浪郡邊りから黃海を船で渡ったのではないだろうか。書かれていないので推測。