三国志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人(四)

正始元年せいしがんねん太守弓遵遣建中校尉梯儁等たいしゅきゅうそんをけんちゅうこういていしゅんらをつかわし 奉詔書印綬詣倭國しょうしょしんじゅをほうじわこくにまいり拜假倭王はいしてわおうにかす並齎詔賜金ならびにみことのりせいじ きんはく錦罽きんけいとうきょう采物さいぶつをたまう倭王因使上表荅謝恩詔わおうしにじょうひょうするによりてとうしゃおんしょうす

其四年そのよねん倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人わおうふたたびたいふいせきえきやこらはちにんをしにつかわし、 上獻生口せいこう倭錦わきん絳青縑こうせいけん緜衣めんい帛布はくふ丹木たんぼく𤝔ふ?短弓矢たんきゅうしをじょうけんす
掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬えきやこらいつにそつぜんちゅうろうしょういんじゅをはいす
其六年そのろくねん詔賜倭難升米黃幢みことのりしてわなしめこうどうをたまわるをしょうす付郡假授<ぐんにふしかじゅす
其八年そのはちねん太守王頎到官たいしゅおうきかんにいたる倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼わじょおうひみことくなこくだんおうひみここ 素不和もとよりふわなり遣倭載斯烏越等わさいしうえつらをつかわし 詣郡說相攻擊狀ぐんにまいりあいせめうつのじょうをとき遣塞曹掾張政等さいそうえんしちょうせいらをつかはし 因齎詔書、黃幢よってしょうしょ こうしょうをもたらし拜假難升米爲檄告喻之なしめにはいかしげきをなしてこれをこくゆす
卑彌呼以死ひみこしすをもって大作冡おおきなつかをつくる徑百餘步けいひゃくよほ狥葬者奴婢百餘人じゅんそうしゃぬひひゃくよにん更立男王さらにだんおうたつ國中不服くにじゅうふくさず更相誅殺さらにあいちゅうさつす當時殺千餘人とうじせんよにんころす復立卑彌呼宗女壹與またひみこそうじょいよたつ年十三爲王としじゅうさんのおうとなす國中遂定くにじゅうついにさだまる政等以檄告喻壹與せいらげきこくをもっていよをさとす壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人いよわのたいふそつぜちゅうろうしょうえきやこらにじゅうにんををつかわし送政等還せいらをおくりかえらせ因詣臺よってたいにまいり獻上男女生口三十人だんじょせいこうさんじゅうにん貢白珠五千はくじゅごせん孔青大句珠二枚こうせいおおまがたまにまい異文雜錦二十匹いぶんぞうきんにじゅうひきをけんじょうす

正始せいし元年西曆二四〇年帶方郡たいほうぐんの太守の弓遵きゅうそんは、建中校尉の梯儁ていしゅんらを派遣して、 魏帝から託された詔書と印綬を奉じて、倭國にもたらし倭王に授與じゅよした。それとともに、金、白絹、錦罽不明、刀、鏡、顏料を贈った。 倭王は、使者に文書を渡して詔恩への感謝を傳えた。
正始せいし四年西曆二四三年、 倭王はふたたび大夫の伊聲耆いせき掖邪狗えきやこら八人を派遣して、奴隸、 倭錦わきん絳靑縑こうせいけん緜衣めんい帛布はくふ丹木たんぼく𤝔ふ?短弓たんきゅう、矢を獻上した。 掖邪狗らは、皆 率善中郞將そつぜんちゅうろうしょうの位と印綬を授與された。
正始せいし六年西曆二四五年、 魏國の第三代皇帝齊王曹芳そうほうは倭國の難升米なしめに魏國の正當な司令官の權威けんいを示す黃色い旗である黃幢こうどうを贈るよう詔を出し、帶方郡に授與させるよう委託した。
正始せいし八年西曆二四七年、 新しい太守の王頎おうきが帶方郡に赴任した。
倭國の女王卑彌呼は狗奴國くなこくの男王である卑彌弓呼ひみこことずっと不和であった。 倭國は、載斯烏越さいしうえつらを派遣して帶方郡を訪れ、共に攻擊する計畫けいかくを說明した。塞曹掾史さいそうえんし張政ちょうせいを派遣して旣に難升米なしめあたえられることが決まっていた詔書、黃幢こうどうを持って來て授與したが、檄文による通告で魏國は援軍を出さない旨を傳えて難升米を諭した。
卑彌呼が死んだため大きな塚を作った。直徑は百步あまりで殉死して葬られたのは奴隸百人あまりである。 卑彌呼の後繼こうけいとして男性の王を立てたが國中がその王には服さず、それどころか混亂こんらんして、殺し合い千人以上が死んだ。
また王が代わり卑彌呼の血統から十三歲の壹與いよを王として立てた。ついに國の混亂が收まった。
王が交替したので、しかも混亂も收まったので、倭國に來ている塞曹掾史さいそうえんし張政ちょうせいは檄文で朝貢するように壹與を諭した。壹與は倭の大夫である率善中郞將の掖邪狗ら二十人を魏國に派遣し、それと共に張政らを送り返した。 倭國の使者は魏の太祖たいそである曹操そうそうの宮殿である銅雀臺どうじゃくだいを詣り、男女の奴隸を三十人と、白珠はくじゅを五千個、 靑綠色の大きな勾玉まがたまを二個、 異文雜錦をいぶんぞうきんを二十ひき四十たんを齊王に獻上した。

卑彌呼ひみこ壹與いよの時代だけが詳しく紹介されている。その頃の倭國というのは當時の中國魏國からすれば文化の遲れた蠻族であろうかと思われるが、何故か非常に好意的に書かれている。西曆二四五年といえば、遼東半島の戰亂が收まっている頃だと思われるが、魏の都まではどのように行ったのだろうか。ちなみに、その前の西曆二三八年の使者はまさに遼東半島で遼隧の戰いがあった年なのでおそらく陸路は無理で、樂浪郡邊りから黃海を船で渡ったのではないだろうか。書かれていないので推測。