三国志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人(三)

其國本亦以男子爲王そのくにもとよりまただんしをもっておうとなす住七八十年しちはちじゅうねんとどまるも倭國亂わこくみだれる相攻伐歷年あいこうばつれきねん乃共立一女子爲王ともにいちじょしをたてておうとなす名曰卑彌呼なをひみこといひ事鬼道きどうにつかえ能惑衆よくしゅうをまどわす年已長大としすでにちょうだい無夫壻ふせいなし有男弟佐治國だんていありくにをおさむるをたすく自爲王以來おうとなるよりいらい少有見者みるものあるもすくなし以婢千人自侍ひせんにんをもってみずからをはべる唯有男子一人給飲食ただだんしひとりありていんしょくをきゅうし傳辭出入ことばをつたえでいりす居處宮室樓觀いどころきゅうしつせいかんにて城柵嚴設じょうさくげんせつす常有人持兵守衛つねにひとありてへいをもちてしゅえいす

女王國東渡海千餘里じょおうこくよりひがしにうみをわたるせんより復有國またくにありて皆倭種みなわしゅなり又有侏儒國またしゅじゅこくあり在其南人長三四尺そのみなみにありにんちょうさんしじゃく去女王四千餘里じょおうをさるよんせんより又有裸國またらこくあり黑齒國復在其東南こくしこくまたそのとうなんにあり船行一年可至せんこういちねんでいたるべし參問倭地わのちさんもんするに絕在海中洲島之上かいちゅうすしまのうえにぜつざいし或絕或連あるいはたえあるいはつらなり周旋可五千餘里ごせんよりばかりをしゅうせんす

景初二年六月けいしょにねんろくがつ倭女王遣大夫難升米等詣郡わじょおうたいふなしめをつかわしぐんにいたらしめ求詣天子朝獻てんしにまいりちょうけんをもとむ太守劉夏遣吏將送詣京都たいしゅりゅうかりをつかわしひきいておくりきょうとにまいる其年十二月そのとしじゅうにがつ詔書報倭女王しょうしょをわじょうおうにほうじる
いわく
制詔親魏倭王卑彌呼しんぎわおうひみこにみことのりをせいす帶方太守劉夏遣使たいほうたいしゅりゅうかしをつかわし 送汝大夫難升米次使都巿牛利なんじたいふなしめじしつしごりをおくり奉汝所獻男生口四人なんじほうずるところおとこせいこうよにん女生口六人おんなせいこうろくにん班布二匹二丈はんぷにひきにじょう以到もっていたるをたてまつる。汝所在踰遠なんじあるところゆえん乃遣使貢獻すなわちしをつかわしこうけんす是汝之忠孝これなんじのちゅうこうである我甚哀汝われはなはだなんじをあわれむ今以汝爲親魏倭王いまなんじをもってしんぎわおうとなし假金印紫綬きんいんしじゅをかす裝封付帶方太守假授そうふうしたいほうたいしゅにふしかりうけす汝其綏撫種人なんじそれしゅじんをすいぶし勉爲孝順つとめてこうじゅんをなせ汝來使難升米なんじがらいしなしめ牛利涉遠道路勤勞ごりとおきどうろををわたりきんろうす今以難升米爲率善中郎將いまなしめをもってそつぜんちゅうろうしょうとなし牛利爲率善校尉ごりそつぜんこういとなす假銀印青綬ぎんいんせいじゅをかし引見勞賜遣還いんけんろうたまわりかえらしむ今以絳地交龍錦五匹いまこうちこうりゅうきんごひき
臣松之以爲地應爲綈しんしょうしのおもうにちまさにていとなす漢文帝著皂衣謂之弋綈是也かんぶんていそういをちゃくすをよくていというはこれなり此字不體このじふたいなるは非魏朝之失ぎちょうのしつにあらず則傳寫者誤也すなはちでんしゃしゃのあやまりなり
絳地縐粟罽十張こうちすうぞくけいとおはり蒨絳五十匹せんこうごじゅうひき紺青五十匹こんじょうごじゅうひき荅汝所獻貢直なんじこうちょくをけんずるところにこたえる又特賜汝紺地句文錦三匹またとくになんじにこんじくぶんきんさんひき細班華罽五張さいはんかけいごはり白絹五十匹しらぎぬごじゅうひき金八兩きんはちりょう五尺刀二口ごしゃくとうふたくち銅鏡百枚どうきょうひゃくまい眞珠しんじゅ鈆丹各五十斤えんたんかくごじゅうきん皆裝封付難升米牛利みなそうふうしてなしめごりにふす還到錄受かえりいたればろくじゅして悉可以示汝國中人ことごとくをなんじのこくちゅうじんにしめすをもって使知國家哀汝こっかなんじをあわれむをしらしむるべし故鄭重賜汝好物也ゆへにていちょうになんじにこうぶつをたまえり。」

その國はもともとは男性を王としていた。七、八十年は爭いは止まっていたが、やがて倭國は戰亂せんらんの世となった。何年も攻擊しあった後、共同で一人の女性を王に立てた。 名前を卑彌呼という。鬼道を使って、大衆を巧みに導いた。旣に歲をとっていて夫は持っていない。弟がいて國を治めるのを補助した。王となってから見た人は少ない。お付きの召し使いの女性が千人いる。男性が一人だけいて女王の食事を給し、言葉を傳えるために出入りしている。 住んでいる宮殿は物見櫓ものみやぐらさくによって嚴重に守られていて、いつも人がいて兵士が警護している。

女王の國より東に千里あまり海を渡る。また國があるが、人種は倭人ではあっても別の文化である。 また、侏儒國がある。その南にあり何がどこから?、住んでいる人たちの身長が三〜四尺である。女王國を離れて四千里あまり。 また、裸國、黑齒國がある。また、そのどこ?東南にあって船で一年ほどで到著する。 倭の地を訪れて調べたところ、大陸から離れた海の中に存在し、島が點在てんざいしたり列島であったりするところをぐるっと周ると五千里あまりである。

景初二年西曆二三八年六月、倭國の女王は大夫の難升米なしめらを使者として帶方郡に派遣して、魏の第二代皇帝曹叡明帝に朝見拜謁と朝獻貢ぎ物を送るすることを願い出た。 帶方郡の太守の劉夏は官吏を派遣し魏の都の洛陽まで倭國の使者を連れて行った。 その年の一二月、明帝からの詔書を倭國の女王に送った。
それによると、
「親魏倭王の卑彌呼に詔を告げる。帶方郡太守の劉夏は使者を帝である私、曹叡に派遣し、あなたの大夫である難升米なしめと副使の都市牛利つしごりを送ってきた。 あなたの獻上品である男性奴隸四人と女性奴隸六人と織物二匹二丈にひきにじょう一匹は二反、一丈は一.八米が到著したので受け取った。あなたの國は遙か遠くであるが使者を送り貢獻してくれた。これをあなたの忠孝と受け止め私はあなたの義をいたく感じ入っている。 この度、あなたを親魏倭王に認定し、金印紫綬を與える。包裝して封をして帶方郡太守に託した。あなたはそれを受取り、あなたの種族國の民をいたわり、今後とも魏によく仕えなさい。 あなたの命令により使者の難升米なしめ牛利ごりが洛陽までやって來た。遠路はるばる苦勞をよく勤めた。この度、難升米に率善中郞將、牛利に率善校尉の官職を與える。銀印靑綬を與えて對面で勞をねぎらって倭國に歸らせる。 このたび、絳地の交龍錦五匹(この注を書いている私、)裴松之はいしょうしが思いますには、「地」は「綈」にするべきです。漢の文帝が「皁衣そうい」を著たのを 「弋綈よくてい」ということであります。この不適切な字は魏朝の明帝の部下が倭國の使者に渡した詔を書き誤ったのではなくて書きうつす者が閒違ったものです。 絳地赤地縐粟罽すうぞくけいを十張、蒨絳せんこう五十匹、紺靑こんじょう・ぐんじょう五十匹をもって、あなたの貢物への返禮品とする。 また、特別に、あなたに紺地こんじ句文錦くもんきんを三匹 、細班華罽さいはんかけいを五張、白絹を五十匹、金を八兩、五尺刀を二口、銅鏡を百枚、眞珠と鉛丹赤色の顏料をそれぞれ五十斤をあたえます。 すべて包裝して封印し難升米たちに持たせます。彼らが倭國のあなたの元に歸り著いたら記錄して受け取り、すべてをあなたの國中の人に示すことで、我が國魏國があなたを大切に思うことを知らしめなさい。 だからこそ、あなたに良い物を丁重に送るのです。」

女王の國から東實際には南?に海を渡って侏儒國、裸國、黑齒國について書かれている段落は前後と噛み合わず出鱈目に插入したようで唐突な印象を受ける。帶方郡から日本に渡るところでは朝鮮半島の西側と南側で七千里餘りと書かれていて、倭國の周りをぐるっと巡って五千里では倭國はかなり小さいということになる。四國か九州程度という認識なのか? そうなるとこの段落だけは邪馬臺國九州說の方が合うのではないかと思われる。そうであれば女王の國から千里ほど海を渡れば沖繩であるし、船で一年も行けばフィリピン、インドネシア、オセアニアにも辿り著けるであろう。突然出てきたコロポックルを連想させる小人の國には困らされるが。
ちなみに、韓から三國時代の一尺が二十三、四cmなので四尺でも一mに滿たず現在の日本人でいえば二歲兒程度の身長ということになる。

貢物・返禮品に登場するひき(疋)は反物著物の生地で使用する單位。一匹は二たん。一反は三十六cm×二十二m程度。