三国志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人(二)

男子無大小皆黥面文身だんしだいしょうなくみなげいめんぶんしんす自古以來いにしえよりいらい其使詣中國そのつかいちゅうごくにもうで皆自稱大夫みなみずからたいふをしょうす夏后少康之子封於會稽かこうしょうこうのこにおいてかいけいにふうず斷髮文身以避蛟龍之害だんぱつぶんしんをもってこうりゅうのがいをさく今倭水人好沈沒捕魚蛤いまわのすいじんよくちんぼつしぎょこうをとらえ文身亦以厭大魚水禽ぶんしんまたもってたいぎょすいきんをいとう後稍以爲飾ややあとをもってしょくとなす諸國文身各異しょこくぶんしんかくことなり或左或右あるいはひだりあるいはみぎ或大或小あるいはだいあるいはしょう尊卑有差そんぴさあり計其道里そのどうりをはかるに當在會稽東治之東まさにかいけいとうじのひがしあり其風俗不淫そのふうぞくいんならず男子皆露紒だんしみなろけいし以木緜招頭もめんをもってしょうとうす其衣橫幅そのころもよこはばを但結束相連ただあいつらねてけっそくす略無縫ほぼぬわず婦人被髮屈紒ふじんかみをおおいくっけいす作衣如單被さくいたんぴのごとし穿其中央そのちゅうおうをうがち貫頭衣之あたまをつらぬきこれをころもす種禾稻紵麻かとうちょまをうえ蠶桑緝績さんそうしゅうせきして出細紵縑緜さいちょけんめんだす其地無牛馬虎豹羊鵲そのちぎゅうばこひょうようじゃくなし兵用矛楯木弓へいほこたてきゆみをもちう木弓短下長上きゆみしたみじかくうえながし竹箭或鐵鏃或骨鏃ちくせんあるいはてつぞくあるいはこつぞくあり所有無與儋耳朱崖同ありなきのところたんじしゅがいのままにおなじ倭地溫暖わのちおんだんにて冬夏食生菜とうかせいさいをょくす皆徒跣みなかちはだし有屋室むろやあり父母兄弟臥息異處ふぼきょうだいことなるところにがそくす以朱丹塗其身體しゅたんをもってそのからだにぬる如中國用粉也ちうごくのこなをもちいるごとくなり食飲用籩豆手食しょくいんへんとうをもちいてでしょくす其死そのし有棺無槨かんありかくなし封土作冡つちにふうじてつかをつくる始死停喪十餘日しよりはじめてもじゅうよにちにてとめ當時不食肉とうじにくをしょくさず喪主哭泣もしゅこくきゅうし他人就歌舞飲酒たひとかぶにつきいんしゅす已葬舉家詣水中澡浴そうをやみいえをあげてすいちゅうにもうでそすよくす以如練沐もってれんもくのごとし其行來渡海詣中國そのゆききうみをわたりちゅうごくにまいり/rt>恒使一人つねに一人を使い不梳頭くしけずらず不去蟣蝨きしつをのぞかず衣服垢汚いふくこうおし不食肉にくをしょくさず不近婦人ふじんにちかよらず如喪人もじんのごとく名之爲持衰なをじさいとなす若行者吉善もしゆくはぜんなれば共顧其生口財物ともにそれせいこうざいぶつをかえりみて若有疾病遭暴害もししつびょうありぼうがいあれば便欲殺之すなわちこれをころさんとほっす謂其持衰不謹おもえばそれすさいつつしまざる出眞珠青玉しんじゅせいぎょくいず其山有丹そのやまたんあり其木有そのきたんしょ豫樟よしょうじゅうれきとう橿きょう烏號うごう楓香ふうこう其竹そのたけしょうかん桃支とうし有薑きょうきつしょう蘘荷じょうか不知以爲滋味あるももってじみとなすをしらず有獮猿黑雉びえんこくちあり其俗舉事行來そのぞくをあげてこうらいにつとめ有所云爲いいなすところあり輒灼骨而卜すなわちほねをやきしかしてぼくし以占吉凶もってきっきょうをうらない先告所卜まずぼくするところをつげる其辭如令龜法そのじれいきのほうのごとく視火坼占兆かたくをみてきざしをうらなう
其會同坐起それかいどうざきし父子男女無別ふしだんじょのべつなく人性嗜酒じんせいししゅす
魏略曰ぎりゃくいはく
其俗不知正歲四節そのぞくせいさいしせつをしらず但記春耕秋收爲年紀ただしゅんこうしゅうしゅうをはかりねんきとなすのみ

見大人所敬たいじんをみてうやまうところは但搏手以當跪拜ただはくしゅしもってまさにきはいす其人壽考そのひとじゅこう或百年あるいはひゃくねん或八九十年はち、きゅうじゅうねん其俗そのぞく國大人皆四五婦くにのたいじんみなしごふ下戶或二三婦げこあるいはにさんふ婦人不淫ふじんいんならず不妒忌ときせず不盜竊せっとうせず少諍訟そうしょうすくなし其犯法もしはんをおかせば輕者沒其妻子そのさいしをぼっし重者滅其門戶及宗族おもきものそのもんこおよびそうぞくをめっす尊卑各有差序そんぴかくさじょあり足相臣服あいきょふくたり收租賦そふをおさむる有邸閣ていかくあり國國有市くにぐにいちあり交易有無うむをこうえきし使大倭監之たいわをしてこれをかんする自女王國以北じょおうこくよりいほく特置一大率とくにいちだいそつをおき檢察諸國しょこくをけんつさつし諸國畏憚之しょこくこれをいたんす常治伊都國つねにいとこくにておさめ於國中有如刺史くにじゅうにししのごくとあり王遣使詣京都おうつかいをやりきょうと帶方郡たいほうぐん諸韓國しょかんこくにいたらしむ及郡使倭國およびぐんわこくにつかわし皆臨津搜露みなりんしんそうろし傳送文書賜遺之物詣女王ぶんしょうしいのものをでんそうしじょおうにまいりさそうす不得差錯さそうをえず下戶與大人相逢道路げこたいじんとどうろであいあえば逡巡入草しゅんじゅんしてくさにいる傳辭說事じをつたえことをとくに或蹲或跪あるいはうずくまりあるいはひざまずき兩手據地りょうてをちにより爲之恭敬これをきょうけいとなす對應聲曰噫たいおうするこえはああといい比如然諾くらべるにぜんだくのごとし

男性は老若に關係なく皆が顏やからだに入れ墨をしている。 昔からその使者を中國に送り誰もが皆、自らを大夫としょうする。 夏王朝の少康はその子を會稽かいけい郡に封じた。その子は斷髮して體に入れ墨をして龍の一種である蛟龍こうりゅうの害を避けた。 今、倭の漁師は潛水して魚や貝を捕ることが上手で、體に入れ墨をすることで同樣にサメや水鳥の害を避けている。 後に入れ墨は飾りとなる。國によって入れ墨は異なり右や左、大きい小さいがある。身分で違いがある。
その國邪馬臺國はその距離を測るとまさに會稽郡東治縣の東に在る筈だ。
その風俗はふしだらではない。男性はみな帽子は被らず髮を纏めて結い、髮を木綿の紐で頭に持ち上げて畱めている。衣服はただ橫を紐で縛って引っ付けている。ほとんど縫うことをしない。 女性は髮を被り物で覆っている。髮は曲げて結っている。衣服は一枚の布のようなもので作っている。その中央に宂を空けてその宂に頭を通して著ている。 稻や麻を植え、養蠶を行って絲をつむぎ目の細かい織物や綿を作る。 そこには牛・馬・虎・ひょう・羊・かささぎはいない。 兵士は、ほこ・木のたて・木の弓を使う。 木の弓は握りより下が短く上が長い。竹でできた矢にてつや骨のやじりを付ける。
ほぼ擔耳たんじ朱崖しゅがいと同じである。意味不明
倭の地は溫暖で、冬でも夏でも野菜を食べることができ、みな裸足で步いている。家屋があって家族はそれぞれ別々に橫になって寢る。 赤い粉をその體に塗る。中國では粉を使うのと似ている。飮食は背の高い器を使い、手で食べる。 人が死んだときはひつぎを使うが、棺を入れるかくは使わない。 土に埋めて盛り土をして塚を作る。死んだ日から始めて喪が終わるまで十日あまり、喪のあいだは肉食は行わない。 喪主はこえを出して泣き、他の人は歌ったり踊ったりして酒を飮む。葬儀が終わったら家族そろって水中で身を淸める。中國の練沐れんもくのようなものだ。
海を渡り中國に參るのは常に一人が選ばれた。髮をかさずシラミを取らず垢の付いた汚い服を著て肉を食べす女性を近づけない樣は喪に服する人のようである。名を持衰じさいという。 もしも、中國への遣使が成功すれば、奴隸にも財產の恩惠がある。だがもし、病氣や嵐が起きるならその原因の持衰を殺そうとする。持衰が愼まないせいであると思うからだ。
眞珠しんじゅや靑玉サファイアが出る。山には辰砂しんしゃがある。木は たんクスノキしょトチノキ豫樟よしょうクスノキ二囘め、別種類?じゅうれきクヌギとう橿かしカシノキ烏號うごう楓香ふうこうカエデがある。
竹は しょうササタケかん不明桃支とうし桃枝竹である。
きょう生姜きつタチバナしょう山椒蘘荷じょうかミョウガがある。
しかし、それが榮養えいようがあって美味であることを知らない。
大猿とキジがいる。
倭國の風俗は日頃の行いを擧げて言うことすることがあれば骨を燒き割れ目を作りそれを見て吉凶を占ってお告げをする。その占いの方法は龜法龜甲占いで燒いた甲羅の割れ方を見て占うのと似ている。
倭國の人たちは宴で集まって立ったり座ったり動き囘る。親子男女たがわず酒好きで酒を嗜む。
魏畧には、「庻民は正確な曆や曆に基づいた節分などで分けられた四季を知らない。ただ、春に耕してから秋に收穫するまでを一年と數える決まりである。」と書かれている。 特に身分の高い人に會うときやその人を敬うときは、ただ拍手神社拜禮時の拍手かしわでのようなものか?して、きちんとひざまずいて禮拜れいはいしなくてはならない。
倭國の人たちは長壽で百歲あるいは八十・九十歲である。倭國の風俗は國の高位の人はみな四、五人の妻を持ち、庻民でも二、三人の妻を持つ。女性は淫らではなく嫉妬もしない。 竊盜せっとうを行わず、訴えて爭うことは少ない。もしも法を犯せば罪の輕い者は妻子を奴隸として取られる。重罪ならその家と財產を沒收され一族が殺される。奴隸にされるか殺されるかは原文からは讀み取れないので推測で書いている。
それぞれ身分の格差はあるが、互いに低姿勢な關係かんけいで上手くいっている。集めた年貢を納める倉庫がある。
倭の國々には市がある。種々雜多なものを交易するのを大倭に監視させた。 女王の國より北實際じっさいは西には一大率を置いて諸國を檢察させた。諸國はこれを畏れた。
倭國の王は使者を魏の都や帶方郡や諸韓國に派遣した。帶方郡から倭國に使者を送ると、全ての物は使者から渡す際に開いて確認し、文書と送り與えた物を運び、女王に屆けるので閒違いは起こらない。
庻民は身分の高い人と道路で出會うとしりごみして脇の草むらに入る。 言葉をつたえ、事を說明する際にうずくまったりひざまずいたりして兩手を地面に付けることで、身分の高い人への敬意の現れとする。聞いたことにたいする返答は「ああ」と言い、引き受けたことになる。

會稽郡東治縣というのは現在の福州にあたる。邪馬臺國が會稽郡東治縣の東に沖にあるということであればそれは沖繩になってしまう。會稽山であれば現在の上海の南東側近くなので、そこから東東北東に邪馬臺國があるというのは正しいのだが。ただし、當時の魏人がその倭國の記述のように九州の南東方向に本州があると誤解していたのであれば東治縣の東の遙か沖というのは誤解の中ではあるものの正しい位置豫想なのかもしれない。

擔耳たんじ朱崖しゅがいは中國の南側でベトナムに近いところにある海南島に存在した二郡のこと。それに風俗(や邪馬臺國の位置)が近いと思っていたというのは地理的に意味がわからない。

最後の「傳辭說事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾」はその文字や讀み下しでは何のことか解り難いが、日本の時代劇でよく見かける「武士が偉い人の前でひれ伏して『ははーっ』と言う」樣なのを想像すると良いのかもしれない。