三国志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝 韓(四)

辰韓在馬韓之東しんかんばかんのひがしにあり其耆老傳世そのきろうよよをつたへ自言古之亡人みずからをいにしへのぼうじんといふ避秦役來適韓國しんのえきをさけかんこくにらいてきし馬韓割其東界地與之ばかんそのひがしのかいちをさきこれにあたふ有城柵じょうさくあり其言語不與馬韓同そのげんごばかんとおなじならず名國爲邦くにをなづけてほうとなし弓爲弧ゆみをことなし賊爲寇ぞくをこうとなし行酒爲行觴ぎょうしゅをぎょうしょうとなす相呼皆爲徒あひよびてみなをととなし有似秦人しんじんににるあり非但燕ただえん齊之名物也せいのものになづけるにあらず名樂浪人爲阿殘らくろうじんをなづけてあざんとなし東方人名我爲阿とうほうじんはわれをなづけてあとなし謂樂浪人本其殘餘人らくろうじんはもとそのざんよのひとといふ今有名之爲秦韓者いまこれをなづけてしんかんしゃとなすあり始有六國はじめりっこくあり稍分爲十二國ちいさくわかれじゅうにこくをなす
弁辰亦十二國べんしんまたじゅうにこく又有諸小別邑またもろもろのしょうのべつゆうあり各有渠帥おのおのきょすいあり大者名臣智だいなるものはしんちとなづけ其次有險側そのつぎにけんそくがあり次有樊濊つぎにはんわいがあり次有殺奚つぎにさつけいがあり次有邑借つぎにゆうしゃがある
有已柢國いていこく不斯國ふしこく弁辰彌離彌凍國へんしんびりびとうこく弁辰接塗國へんしんしょうとこく勤耆國きんきこく難彌離彌凍國だんびりびとうこく弁辰古資彌凍國へんしんこしびとうこく弁辰古淳是國へんしんこしゅんしこく冉奚國ぜんけいこく弁辰半路國へんしんはんろこく弁樂奴國へんがくどこく軍彌國くんびこく弁軍彌國へんくんびこく弁辰彌烏邪馬國へんしんびおしゃまこく如湛國じょたんこく弁辰甘路國へんしんかんろこく戶路國ころこく州鮮國しうせんこく馬延國まえんこく弁辰狗邪國へんしんこうしゃこく弁辰走漕馬國へんしんそうそうまこく弁辰安邪國へんしんあんしゃこく馬延國まえんこく弁辰瀆盧國へんしんとくろこく斯盧國しろこく優由國ゆうゆうこくありべん辰韓合二十四國しんかんあわせてにじゅうよんこく大國四五千家たいこくしごせんけ小國六七百家しょうこくろくしちひゃくけ總四五萬戶すべてしごまんこ其十二國屬辰王そのじゅうにこくしんおうにぞくし辰王常用馬韓人作之しんおうつねにばかんじんをもちひてこれをなし世世相繼よよをあひつぐ辰王不得自立爲王しんおうみずからたちておうをなすをえず

魏略曰ぎりゃくいはく
明其爲流移之人あきらかにそれはりゅういのひとをなし故爲馬韓所制ゆへにばかんのせいするところとなす


土地肥美とちよくびにして宜種五穀及稻ごこくおよびいねをうえるによろしく曉蠶桑てんさんをしり作縑布けんぷをつくり乘駕牛馬ぎゅうばにじょうがし嫁娶禮俗よめとりのれいぞくは男女有別だんじょべつあり以大鳥羽送死おおとりのはねをもってしをおくり其意欲使死者飛揚そのいはししゃをひようせしむをほっす

魏略曰ぎりゃくいはく
其國作屋そのくにおくをつくるに橫累木爲之よこにきをつみこれをなし有似牢獄也ろうごくににるあり


國出鐵くにはてつをだしかんわい倭皆從取之わはみなよってこれをとる諸巿買皆用鐵もろもろのいちかいはみなてつをつかい如中國用錢ちゅうごくのぜにをもちひるがごとくし又以供給二郡またにぐんにきょうきゅうする俗喜歌舞飲酒ぞくはかぶいんしゅをよろこぶ有瑟しつあり其形似筑そのかたちちくににて彈之亦有音曲これをひくまたおんきょくあり兒生じうまれると便以石厭其頭すなはちいしをもってそのかしらをおさへ欲其褊そのせまいをほっす今辰韓人皆褊頭いましんかんじんみなかしらがせまい男女近倭だんじょわにちかく亦文身またぶんしんす便步戰すなはちほせんし兵仗與馬韓同ひょうじょうはばかんとおなじ其俗そのぞく行者相逢いくものはあいあいて皆住讓路みなとどまりみちをゆずる

弁辰與辰韓雜居べんしんとしんかんざっきょし亦有城郭またじょうかくあり衣服居處與辰韓同いふくきょするところしんかんとおなじ言語法俗相似げんごほうぞくあいにて祠祭鬼神有異しさいきしんいあり施竃皆在戶西かまどをほどこすにみなこせいにある其瀆盧國與倭接界そのとくろこくわとさかいをせっす十二國亦有王じゅうにこくまたおうあり其人形皆大そのひとがたみなだいなり衣服絜清いふくはけっせいで長髮かみはながい亦作廣幅細布またひろはばでさいふをつくる法俗特嚴峻ほうぞくとくにげんしゅんなり

辰韓しんかん馬韓ばかんの東にある。 辰韓の耆老きろう長老は國の長として代々傳えてきた。 自らを昔の亡命者であると言う。 中國のしん戰いから逃げて韓國に來たのである。 馬韓はその東の國境の土地を亡命者に分讓した。 辰韓には城柵がある。 辰韓の言語は馬韓とは違う。 「國」を名付けて「邦」とし、「弓」を「弧」とし、「賊」を「寇」とし、「行酒ぎょうしゅ」を「行觴ぎょうしょう觴は盃のこと」とする。 お互いに呼んで「皆」を「徒」とし、秦の人に似たところがある。 ただ、燕・齊の物への名前の付け方をそのまま行っているのではないのである。 「樂浪人」を「阿殘」とするのは、東方人辰韓の人は「我」を「阿」として、樂浪人は元はその殘餘人一緖に樂浪から辰韓に逃げず、樂浪に殘った人なので「私達の殘った人」の意味で「阿殘」だからである。 今はこれ秦から辰韓に逃れた人秦韓者しんかんしゃと呼ぶ人がいる。
辰韓は最初は六國があったが次第に分かれて十二國となる。 弁辰べんしん弁韓もまた十二國で、さらに諸々の小さな別邑別の村がある。 それぞれの國に國の指導者である渠帥きょすい居西干か?がいて、 偉い人は階位名を臣智しんちとし、 その次に險側けんそく、 次に、樊濊はんわい、 次に、殺奚さつけい、 次に、邑借ゆうしゃがある。
已柢國いていこく不斯國ふしこく弁辰彌離彌凍國へんしんびりびとうこく弁辰接塗國へんしんしょうとこく勤耆國きんきこく難彌離彌凍國だんびりびとうこく弁辰古資彌凍國へんしんこしびとうこく弁辰古淳是國へんしんこしゅんしこく冉奚國ぜんけいこく弁辰半路國へんしんはんろこく弁樂奴國へんがくどこく軍彌國くんびこくべんくんびこく弁軍彌國へんくんびこく弁辰彌烏邪馬國へんしんびおしゃまこく如湛國じょたんこく弁辰甘路國へんしんかんろこく戶路國ころこく州鮮國しうせんこく馬延國まえんこく弁辰狗邪國へんしんこうしゃこく弁辰走漕馬國へんしんそうそうまこく弁辰安邪國へんしんあんしゃこく馬延國まえんこく重複弁辰瀆盧國へんしんとくろこく斯盧國しろこく優由國ゆうゆうこくがある。 弁韓と辰韓で合わせて二十四國ある。 大國は四五千戶、小國は六七百戶で、すべて合わせると四あるいは五萬戶ある。
その十二國は辰王に屬し、辰王は常に馬韓人を登用してこれをして何を?代々王を繼いだ。辰王は自主的に王に卽位することができなかった。

魏畧によると
あきらかにそれは流れ移る人を發生させるので、だから馬韓が制しているのである。意味不明

土地はよく肥えていて、穀物五種と稻を植え、天蠶を知り固織の絹布を作る。牛馬に乘ったり曳かせたりする。嫁取りの禮俗には男女の別がある。 大きな鳥の羽を使って死者を送る。その意味は死者を飛揚させることにある。

魏畧によると
その國の建物を作る方法は木を橫に積み上げる。そのため入り口やまどが橫に無くてまるで牢獄の樣になるのだ。

辰韓の國からはてつが產出される朝鮮半島の東南岸の地域。韓・濊・倭はみなこの鐵を採る。諸々のせりや買い物で支拂いに鐵を使うのは中國で錢を使うようなものだ。また、この鐵を帶方郡と樂浪郡の二郡にも供給している。
その風俗は、歌・踊り・飮酒を喜ぶ。
しつ大型の琴があり、その形はちく小型の琴のような形の樂器。音階の調節の手は琴と同じだが、もう片方の手は棒を持って叩いて演奏するに似ている。これを彈くための音曲もある。 赤ん坊が生まれるとすぐに石で頭を押さえてそれを狹く細くしようとする。 そのため、今辰韓の人はみな頭がせまい。 男女ともに倭人に近く、倭人と同じように入れ墨をする。
また、步戰し、武器は馬韓と同じである。 その風俗は、道ですれ違うとき皆立ち止まって道を讓る。

ここから弁辰弁韓について。 弁辰と辰韓は雜居していてはっきりした國境もなく互いに入り組んでいたらしい。、城郭がある。 弁辰の衣服や住むところは辰韓と同じである。 言語や法俗も辰韓に似ている。司祭や鬼神に違いがある。竈を作るのは皆家の西側である。 弁辰の瀆盧國とくろこくは倭と境界を接している。 弁辰の十二國にはまた王がいる。その容姿はみな大きい。衣服は淸潔で廣い幅の細布麻織物を作る。法俗は特に嚴しい。

官位名、國名は讀み方がわからないため基本的に漢音(ただし日本式發音)を當てた。

辰韓と弁韓は全く別の場所にそれぞれ國があったということではなく、朝鮮半島の南東部に辰韓と弁韓の二四國が入り混じって國を作っていたらしい。ここには書かれていないが弁韓は半島南部の中央で特に勢力を伸ばしたようである。 大體だいたい同じ地域であるので風俗としては辰韓と弁韓は似たもので、信仰のようなものが違うということらしい。
弁韓の特定の一國(瀆盧國)が倭國と境界を接していたということなので、少なくとも朝鮮半島の南岸東半分の何處かに倭國が進出して領土を持っていたことがわかる。