三国志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝 韓(三)

かん靈之末れいていのすえ韓濊彊盛かんとわいはつよくさかんになり郡縣不能制くんけんよくせいするあたわずして民多流入韓國たみおおくかんこくにりゅうにゅうす建安中けんあんちゅう公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡こうそんこうはとんゆうけんのみなみのこうちをもってたいほうぐんとなし遣公孫模こうそんぼ張敞等收集遺民ちょうしょうらをつかわしいみんをしゅうしゅうし興兵伐韓濊へいをおこしかんとわいをうつも舊民稍出きゅうみんしょうしゅつす是後倭韓遂屬帶方こののちわとかんはついにたいほうにぞくす景初中けいしょちゅう明帝密遣帶方太守劉昕めいていひそかにたいほうたいしゅりゅうきんと樂浪太守鮮于嗣越海定二郡らくろうたいしゅせんうしをつかはしうみをこえてにぐんをさだめしむ諸韓國臣智加賜邑君印綬しょかんこくのしんちはゆうくんのいんじゅをかしされ其次與邑長そのつぎにゆうちょうをあたえられる其俗好衣幘そのぞくはいさくをこのみ下戶詣郡朝謁げこはぐんにまいりちょうえつし皆假衣幘みないさくをかし自服印綬衣幘千有餘人みずからしんじゅいさくをふくするものせんゆうよにん部從事吳林以樂浪本統韓國ぶじゅうじごりんはらくろうをもってかんこくをほんとうし分割辰韓八國以與樂浪しんかんはちこくをぶんかつしらくろうにあたえるをもって吏譯轉有異同しのえきをてんするにいどうあり臣智激韓忿しんちふんしてかんをげきし攻帶方郡崎離營たいほうぐんのきりえいをせめる時太守弓遵ときにたいしゅきゅうそん樂浪太守劉茂興兵伐之らくろうたいしゅりゅうもへいをおこしてこれをうち遵戰死そんせんしするも二郡遂滅韓ふたぐんついにかんをほろぼす
其俗少綱紀そのぞくこうきすくなく國邑雖有主帥こくゆうにしゅすいありといへども邑落雜居ゆうらくざっきょし不能善相制御ぜんよくあいぜぎょするあたはず無跪拜之禮きはいのれいなし居處作草屋土室きょすところはくさやどむろをつくり形如冢かたちはいへのごとく其戶在上そのとうへにあり舉家共在中いへをあげてともになかにあり無長幼男女之別ちょうようだんじょのべつなし其葬有棺無槨そのそうはかんありかくなし不知乘牛馬ぎゅうばにのるをしらず牛馬盡于送死ぎゅうばそうしのまま以瓔珠爲財寶えいじゅをもってざいほうとなし或以綴衣爲飾あるいはつづりぎぬをもってかざりとなし或以縣頸垂耳あるいはくびにかけみみにたらす不以金銀錦繡爲珍きんぎんきんしゅうをちんとなさず其人性彊勇そのじんせいはぎょうゆうで魁頭露紒かいとうろしゃくし如炅兵けいへいのごとし衣布袍ふほうをころもし足履革蹻蹋あしはかわのきょうとうをはく其國中有所爲及官家使築城郭そのくにじゅうなすところおよびかんけのじょうかくをきづかしめるあるは諸年少勇健者もろもろのねんしょうのゆうけんなものは皆鑿脊皮みなせがわをうがち以大繩貫之もっておおなわでこれをつらぬき又以丈許木鍤之またじょうばかりのきでこれをすき通日嚾呼作力つうじつかんこしてちからをなし不以爲痛もっていたみとなさず既以勸作すでにさくをつとむるをもって且以爲健かつもってけんとなす常以五月下種訖つねにごがつをもってげしゅをやみ祭鬼神きじんをまつり羣聚歌舞ぐんしゅうかぶし飲酒晝夜無休さけをのみちゅうややすみなし其舞そのまい數十人俱起相隨すうじゅうにんあいたちともない踏地低昂ちをふみていこうし手足相應てあしあいおうじ節奏有似鐸舞ふしそうたくぶににるあり十月農功畢じゅうがつにのうこうをおえ亦復如之またまたこのごとく信鬼神きしんをしんじ國邑各立一人主祭天神こくゆうごとにひとりをたててんじんをまつるをつかさどり名之天君これをてんくんとなづける又諸國各有別邑またしょこくはおのおのべつゆうあり名之爲蘇塗なづけてこれをそととなす立大木たいぼくをたて縣鈴鼓すずつづみをかけ事鬼神きしんにつかへる諸亡逃至其中もろもろのとうぼうそのなかにいたれば皆不還之みなこれをかへさず好作賊ぞくをなすをこのむ其立蘇塗之義そのそとをたてるのぎは有似浮屠ふとににるあるも而所行善惡有異そのぜんあくのおこなうところいあり其北方近郡諸國そのほっぽうぐんしょこくにちかくは 差曉禮俗ややれいぞくをしれど其遠處直如囚徒奴婢相聚そのとほきところただしゅうとぬきのごとくあいあつまるのみ無他珍寶ほかちんほうなし禽獸草木略與中國同きんじゅうくさきほぼちゅうごくとおなじ出大栗おおぐりをだし大如梨おおきさなしのごとし又出細尾雞またほそをとりをだし其尾皆長五尺餘そのをみなながさごしゃくあまり其男子時時有文身そのだんしときどきぶんしんあり又有州胡在馬韓之西海中大島上またしゅうこばかんのにしのかいちゅうのおおしまのうへにあり其人差短小そのひとややたんしょう言語不與韓同げんごかんとおなじにあらず皆髡頭如鮮卑みなあたまをそるはせんぴのごとくして但衣韋ただしおしかわをころもし好養牛及豬よくうしおよびいをやしなふ其衣有上無下そのころもうへありしたなし略如裸勢ほぼらせいのごとし乘船往來ふねにのりゆききして巿買中韓かんのなかでいちうりす

後漢の桓帝かんてい西曆一四六−一六七年靈帝れいてい西曆一六七−一八九年の末頃、かんわいは强く盛んになった。 後漢が朝鮮半島に置いた郡や縣は制することができずに、民は多くが韓國に流入した。 後漢の最後の皇帝である獻帝けんていの治世、西曆一九六−二二一年の 建安中けんあんちゅうに、公孫康こうそんこう屯有縣とんゆうけんの南の荒地を帶方郡たいほうぐんとし、 公孫模こうそんぼ張敞ちょうしょうらを使者として遣わして、殘った民を集め、兵を擧げて韓と濊を征伐すると、後漢の朝鮮半島支配地域から韓に流入した人たちが次第に出てきた。この後についに倭と韓を帶方郡に屬した。
魏の二代皇帝である明帝曹叡めいていそうえいの治世、西曆二三七−二三九年の景初中けいしょちゅうに、明帝は密かに帶方郡太守の劉昕と樂浪郡太守の鮮于嗣を中國から朝鮮半島に海を越えて水軍を送り帶方郡と樂浪郡の二郡を平定した。
韓の諸小國の臣智しんち首長には村長の印綬が貸與され、次に村長の地位を與えられる。その風俗は、衣幘いさく中國風の衣服と頭巾を好み、奴僕ぬぼく朝鮮の下層階級の人は帶方郡に詣り朝謁して、みな衣幘を借りて自ら印を綬け衣幘を著る者が千人以上いた。意味不明。身分の低い者が僞った?
部從事ぶじゅうじ吳林ごりん誰?は樂浪郡こそが韓の諸國の正當な系統であるとして辰韓から八國を分割して、樂浪郡に編入しようとしたが、通譯つうやくする人が飜譯ほんやくを誤って、韓の臣智どの國の誰?は激怒して韓の民を激して帶方郡の崎離營きりえいを攻擊した。 帶方郡の太守長官弓遵きゅうそんと樂浪郡の太守の劉茂りゅうもは軍を出してこれを討伐し、弓遵は戰死したが帶方郡・樂浪郡の二郡の連合軍はついに韓を滅ぼした。
その風俗は、規律は少なく、國や地方の町や村に部隊長程度は居るとはいえ、町や村は複雜に入り組み、上手く制御することはできない。跪拜之禮きはいのれいひざまずいておがむは無い。 生活するところは草屋と土室を作り、形は家に似たものである。入り口の扉はその上にあって、家族が共に中に住んで、老若男女で部屋を分けて住み分けるなどの隔てはない。 その葬儀はひつぎはあるが、棺を覆うかくは無い。 牛や馬に乘ることを知らず、牛や馬が死んだらそのままにしている。 珠の首飾りを財寶として、または繼ぎ合わせた布を飾りとして、または首から紐をかけ耳から垂らす。 中國では貴重品である金や銀、刺繍を施した織物は朝鮮では貴重な品ではない。 その性格は强く勇ましく、頭を大きく見せるように髮を結い、髮を覆ったりせずに露出し、炅兵けいへいのようである。布袍ふほう作務衣さむえや甚平のような布の上著を著て、足には革の蹻蹋きょうとう不明、サンダルのようなもの?を履く。
國中で何かを行うまたは役所や城郭を築かせる公共事業のことか場合は、多くの若くて勇健な者を集めて皆の背中の皮を穿ち、大繩でそこを貫き通してまたは一丈メートル程度の木を通して木は背中の皮を通すのではなく繩で括り付ける?それで地面をき、一日中大聲おおごえわめきながら力仕事をするが痛がることはなく、働くことで健やかであるとされる。
5月の種まきが終わると常に鬼神を祭り、羣衆は歌って舞い、酒を飮むのは晝夜を問わない。 その舞いは數十人が立って同じように地面を踏み手を上げたり下げたりするのを揃って手と足の動きを合わせ、その節や演奏は中國の鐸舞たくぶ鈴のようなものを手に持って踊るに似ている。 十月に農耕を終えるとまた再び五月の祭りのように行う。鬼神を信じて、國や地方や村ごとに一人を立てて天神祭を司る。名付けてこれを天君という。また、諸國はそれぞれ別の村を持っている。名付けてこれを蘇塗そととしている。大木を立てて鈴や太鼓を掛けて鬼神に仕える。
諸々の逃亡者が集落に入ると皆その人を捕まえたり歸したりしない。集團で畧奪することを好む。 その蘇塗を立てる意義は佛敎に似ているが、その所業は善惡が異なっていて、韓の中で北方の漢が朝鮮半島に置いた郡諸國に近いところでは禮や中國風の風俗を少し知っているが、郡諸國から遠いところに住む者は囚人や奴隸のようにただ集まって暮らしているだけにすぎない。
他に珍しい寶は無い。 韓にいる動物や植物はほとんど中國とおなじである。大きな栗が穫れて大きさは梨のようである。 また、尾の細い鷄がいて、その尾の長さはみな五尺以上ある。五尺は身體尺なら約一メートル漢の尺なら更に三十センチメートル長い。 男性は入れ墨をしている人が時々いる。
また、馬韓の西の海の大島に州胡しゅうこ濟州島がある。 その島に住む人は背がやや低く、韓とは違う言語である。みな頭を剃っているいるのは鮮卑のようである。 ただ、なめし革を服として身に著けている。よく牛と豚を育て、その服は上半身はあって下半身は無い。殆ど裸のようである。この島の人たちは船に乘って韓と往來し、韓の中で市賣いちう委託によるせり賣りを行う。