三国志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝 韓(二)

魏略曰ぎりゃくいはく
昔箕子之後朝鮮侯むかしのきしののちちょうせんこうは見周衰しゅうおとろえ燕自尊爲王えんはみずかをとほとびおうとなし欲東略地ひがししてちをかすむをほっするをみて朝鮮侯亦自稱爲王ちょうせんこうまたみずからしょうしておうとなし欲興兵逆擊燕以尊周室へいをおこしてえんをむかへうちしゅうしつをとほとぶをほっす其大夫禮諫之そのたいふれいはこれをいさめ乃止すなはちやむ使禮西說燕れいをつかはしえんをとき燕止之えんこれをやめ不攻せめず後子孫稍驕虐のちにしそんややきょうぎゃくにして燕乃遣將秦開攻其西方えんすなはちしょうのしんかいをつかはしてそのせいほうをせめ取地二千餘里ちにせんよりをとり至滿潘汗爲界まんはんかんにいたりてさかいとなし朝鮮遂弱ちょうせんついによわる及秦幷天下すなはちしんてんかをあわせ使蒙恬築長城もうてんをしてちょうじょうをきずかしめ到遼東りょうとうにいたる時朝鮮王否立ときにちょうせんおうひたつも畏秦襲之しんのこれをおそふをおそれ略服屬秦ほぼしんにふくぞくするも不肯朝會あへてちょうかいせず否死ひしに其子準立そのこじゅんたつ二十餘年而陳にじゅうよねんにしてちん項起こうたち天下亂てんかみだれえんせい趙民愁苦ちょうみんうれひくるしみ稍稍亡往準せうせうににげじゅんにゆき準乃置之于西方じゅんすなはちこれをせいほうにおく及漢以盧綰爲燕王かんにいたりろわんをもってえんおうとなす朝鮮與燕界於浿水ちょうせんとえんばいすいをさかいとす及綰反すなはちわんそむき入匈奴きょうどにいりて燕人衛滿亡命えんじんえいまんぼうめいし爲胡服こふくをなし東度浿水ひがしにばいすいをわたり詣準降じゅんにまいりくだり說準求居西界じゅんにさいかいにきょすをもとめ故中國亡命爲朝鮮籓屏ゆへにちゅうごくぼうめいをちょうせんのはんぺいとなすをとく準信寵之じゅんこれをしんちょうし拜爲博士はいしてはかせとなし賜以圭けいをもってたまいて封之百里ひゃくりをふうじ令守西邊せいへんをまもらしむ滿誘亡黨まんぼうとうをさそい衆稍多しゅうしだいにおおく乃詐遣人告準すなはちひとをやりじゅんにつげていつはり言漢兵十道至かんへいじゅうどうにいたるをいひて求入宿衛しゅくえいにはいるをもとめ遂還攻準つひにかへりてじゅんをせめる準與滿戰じゅんまんとたたかふも不敵也てきならず


將其左右宮人走入海まさにそのさゆうのきゅうじんはしりてうみにいり居韓地かんのちにきょす自號韓王みずからかんおうをごうす

魏略曰ぎりゃくいはく
其子及親留在國者そのこおよびおやでくににありてとどまるものは因冒姓韓氏よりてせいをかんしをぼうせいす準王海中じゅんかいちゅうをおうし不與朝鮮相往來ちょうせんとあいゆききせず


其後絕滅そのごぜつめつし今韓人猶有奉其祭祀者いまかんじんのなほそのさいしほうずるものあり漢時屬樂浪郡かんじらくろうぐんにぞくし四時朝謁しじちょうえつす

魏略曰ぎりゃきいはく
はじめ右渠未破時うきょいまだやぶれざるとき朝鮮相歴谿卿以諫右渠ちょうせんしょうれきけいきょうのいさめるをもって不用もちいず東之辰國ひがしのしんこく時民隨出居者二千餘戶ときにたみきょするにせんよこずいしゅつし亦與朝鮮貢蕃不相往來またちょうせんこうはんとあいゆききせず
至王莽地皇時おうもうのちこうのときにいたり廉斯鑡爲辰韓右渠帥れんしのさくをしんかんのうきょすいとなし聞樂浪土地美らくろうのとちよく人民饒樂じんみんじょうらくをきき亡欲來降ほろびてらいこうするをほっす出其邑落そのゆうらくをいでて見田中驅雀男子一人たのなかのすずめをかるおのこひとりをみるに其語非韓人そのことばかんじんにあらず問之これをといて男子曰おのこいはく
我等漢人われらかんじんにして名戶來なをとらい我等輩千五百人伐材木われらやからせんごひゃくにんはざいもくをきるも爲韓所擊得かんのうつところをえるをなすに皆斷髪爲奴みなかみをたちぬとなして積三年矣さんねんをつもるかな。」
鑡曰さくいはく
我當降漢樂浪われまさにかんのらくろうにくだる汝欲去不なんじさるをほっすやいなや
戶來曰とらいいはく
かなり。」
辰鑡因將戶來しんのさくはとらいをひきいるによりて來出詣含資縣きたりてがんしけんにまいりいで縣言郡けんぐにんいふと郡即以鑡爲譯ぐんすなはちさくをもってえきとなし從芩中乘大船入辰韓きんちゅうにしたがいおおふねにのりしんかんにいりて逆取戶來ぎゃくにとらいをとる降伴輩尚得千人くだるにともなうやからなおせんにんをえるも其五百人已死そのごひゃくにんはすでにしす鑡時曉謂辰韓さくときにしんかんにぎょういするに
汝還五百人なんじごひゃくにんをかえすべし若不者しからずんば樂浪當遣萬兵乘船來擊汝らくろうまさにまんぺいのじょうせんするをやりてなんじをらいげきせん。」
辰韓曰しんかんいはく
五百人已死ごひゃくにんすでにしして我當出贖直耳われまさにすぐにあがないいだすのみ。」
乃出辰韓萬五千人すなはちしんかんまんごせんにん弁韓布萬五千匹べんかんふまんごせんひきをだし鑡收取直還さくはしゅうしゅしてただちにかへる郡表鑡功義ぐんはさくのこうせきをひょうし賜冠幘かんさく田宅でんたくをたまふ子孫數世しそんすうせい至安帝延光四年時あんていのえんこうよねんのときにいたり故受復除ゆへにまたじょをうける

この頁の殆ど(綠字の部分)は三國志に注釋を付けた裴松之が魏畧から引用した部分です。

魏畧魏の官僚の魚豢ぎょかんによって書かれた歷史書。後に散逸。によると
古の箕子朝鮮の後に朝鮮侯は、燕が中國の周王朝が衰えたのを期に自らを尊び燕王として東に侵攻して土地を奪おうとしているのを見て、燕と同じように朝鮮侯も自らしょうして王となり、兵を興して燕を迎え擊ち周王朝を尊んだ。
その大夫たいふれいはこれをいさめたので止めることにした。禮を西に使者として送り燕を說得し、燕もこれを止めることにしたので東侵しなかった。
後にその子孫はやや傲慢になり、燕は將軍の秦開しんかいを派遣して朝鮮の西側を攻めて二千里以上の土地を奪って滿潘汗はんまんかい古い地名らしいが諸說あり不明。滿潘汗で一つの地名なのか滿と潘汗の二つの地名なのかも判っていない。までを境界とし、とうとう朝鮮は弱體化した。
秦が天下を統一すると始皇帝は將軍の蒙恬を派遣して長城を築かせ、その先端は遼東にまで達した。秦の時代の長城は遼東を遙かに超えて現在の北朝鮮西部を縱斷して平壤近くを通っている。 ときに、朝鮮では箕否きひ宗統王が王に卽位していたが秦に襲われることを恐れてほぼ秦に服屬したが、始皇帝に拜謁して臣下の禮をすることはしようとしなかった。箕否が死に箕準きじゅん箕氏朝鮮の最後の王。ただし箕否より前の王は實在不明。が卽位した。
二十年以上が過ぎて、陳勝ちんしょう項羽こううが秦に對する反亂軍の指導者として立ち上がり天下が亂れ、燕、齊、趙の人々は惱み苦しんで、しだいに箕準の朝鮮に逃亡して、箕準は亡命者を朝鮮の西部に置いた。
漢の時代になると盧綰ろわんが燕王になった。朝鮮と燕の境界は浿水ばいすい鴨綠江のこととする人が多いが諸說あり。になった。劉邦が死んで盧綰が造反して匈奴に入った。
燕人で盧綰の部下衞滿えいまんは亡命して胡服朝鮮風の服?を著て浿水を東に渡り、箕準に拜謁して服屬し、中國からの亡命者を朝鮮の防御壁とするために朝鮮の西部の國境地帶に住むことを求め說得した。 箕準はこの衞滿を信じて重用し拜して博士にして、圭を授けて百里の土地を支配させ朝鮮の西部の國境を守らせた。衞滿は亡命者の仲閒を誘い集めたので亡命者は次第に增えて、衞滿は箕準に使者を送り、漢の兵があらゆる方面から進軍して來ていると報告させて騙した。そして、箕準を守るために宿衞に入ることを求めた。衞滿はついに易〃と王都に入り箕準を攻擊した。箕準は衞滿と戰ったが全く相手にならなかった。


箕準はその左右の宮廷人を連れて海に逃げ、韓の地に居を構え自ら韓王を號した。


魏畧によると
箕準の子孫や親族で衞滿に奪われた國に畱まった人たちは箕準が韓王を號したことにちなんで姓を韓氏變えた。箕準は海中どこかの島を支配して朝鮮とは往來しなかった。


その箕淮きじゅんの末裔は絕滅したが、今も韓人にはその祭祀を奉る人がいる。
漢の時代には樂浪郡に屬して、春夏秋冬每に朝謁した。


魏畧によると
最初、衞氏朝鮮の第三代王で衞滿の孫右渠うきょ衞右渠だといわれるが敗れる漢の武帝に攻められその後派閥爭いで暗殺される前、 朝鮮の宰相の歷谿卿れきけいきょうは右渠をいさめたが右渠は聞き入れなかった。歷谿卿が東の辰國しんこくに亡命するとき 二千戶以上の住民が一緖に國を出た。また、朝鮮は漢の貢蕃こうはん郡と互いに行き來しなかった。諸說あるようだが、ここでは漢が朝鮮半島に置いた四郡の「眞番しんばん」は誤記で「貢蕃」のことであるという說を採用した。
前漢と後漢の閒の新朝の皇帝となった王莽おうもう治世の元號の一つである地皇西曆二十−二十三年になると、 廉斯れんし地名さく辰韓しんかん辰國の實質的な後繼國右渠帥うきょすいにして、樂浪らくろうの土地が良くて人民が豐かに樂しく暮らしていると聞き、亡命して樂浪に來たいと思った。その村を出て田んぼで雀を追いかける男の子の一人を見ると、その言葉は韓人のものではなかった。 鑡はこれを不思議に思って尋ねると男の子の言うには
「私達は漢人で名を戶來といいます。私達千五百人は木を伐って生活していたところ韓人に攻擊されて皆髮を切られ奴隸にされて三年ほど經ちます。」
鑡が言うには
「私はいままさに漢の樂浪にくだろうとしているところです。あなたはここを去りたいと思いますか、去りたくないですか。」
戶來は言いました。
「去りたいです。」
辰韓の鑡は戶來を連れて含資縣の役所を訪ねて訴え出ると、縣は郡に報告し中国では県と郡の関係が日本と逆、郡はただちに鑡を通譯として芩中に從って芩中が地名であれば「芩中から」。人名なのか地名なのか判らなかった。大きな船で辰韓に入り、戶來の一族や仲閒を奪還した。
投降するのに伴い千人を得たが、その五百人は旣に死んでいた。
鑡は辰韓に宣言した。
「あなたたちは五百人を返すべきだ。もしそうしないのであれば、樂浪はすぐにも多くの兵を船に乘せて派遣しあなた達を攻擊するだろう。」
辰韓が言うには
「五百人は旣に死んでいます。私たちはすぐにも代物であがなうことしかできません。」
そこで、辰韓は一萬五千人を、辯韓べんかんは布を一萬五千ひき織物の大きさの單位を出した。鑡はこれを受け取ると直ちに歸還した。
郡は鑡の功績と義を表彰して冠幘かんせき冠と頭を包む頭巾であるが、ここでは官位も?と田畑と屋敷を與え、數世代先の後漢の安帝の治世である延光四年西曆百二十五年になって再び敍勳を受けた。